日本大百科全書(ニッポニカ) 「李希凡」の意味・わかりやすい解説
李希凡
りきはん / リーシーファン
(1927― )
中国の文芸批評家。本名李錫范(シーフアン)。北京(ペキン)市通県出身。建国前後に革命幹部養成機関として山東(さんとう/シャントン)省済南につくられた「革命大学」に入学、1950年教育方針の転換によって、山東大学中文系に転じ、53年卒業、人民大学哲学研究班に学んだ。54年革命大学からの友人藍翎(らんれい/ランリン)(1930― )と合作で書いた「『紅楼夢(こうろうむ)簡論』その他について」で、『紅楼夢』研究の権威とされていた兪平伯(ゆへいはく/ユーピンポー)を批判、山東大学の雑誌『文史哲』に発表した。これを毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)が「古典文学の領域で30余年にわたって青年を毒していた胡適(こてき/フーシー)派ブルジョア観念論に対する闘争」「小人物による大人物批判」の開始として高く評価したことにより、紅楼夢研究の分野だけでなく、人文科学全般に影響を残していた胡適の学問・思想に対する批判運動に拡大した。また毛沢東がこの論文の発表に消極的だった『文芸報』編集部を批判したことは、それまでの『文芸報』の編集方針への批判運動につながり、そのなかでの胡風(こふう/フーフォン)の発言に対する反撃が、やがて胡風の文芸思想批判だけでなく、彼を「反革命分子」として逮捕するに至る「胡風冤罪(えんざい)事件」のきっかけにもなった。
今日では、紅楼夢研究批判のキャンペーン自体、建国後も以前からの観点に対する再検討が遅れていた古典文学研究の領域で、若い世代からの批判が開始された意義は認めつつも、学術問題に最初から政治指導者が介入し、思想・政治的批判運動として展開したこと、唯物論・観念論の区別とその位置づけが機械的であったことなど、多くの点で誤りを含み、その後の学術研究を阻害する結果を生んだものとして、批判的に評価されている。
李希凡はこれをきっかけに文芸批評家・理論家として、古典文学・現代文学にわたる分野で活発に活動、1956年には中国共産党に入党した。彼の思考・論理は、マルクス主義文学理論の柱とされていた反映論・典型論・リアリズム論等のやや固い理解を基準として、それに反するあるいはそれらに関して曖昧(あいまい)さを含む論文やその作者の思想を鋭く批判する傾向が強い点で、後に「四人組」の一人となった上海の姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)とあわせて「南姚北李」とよばれたこともあり、文化大革命中も発言を続けたが、文革後も健在で、中国芸術院副院長などを務めている。『弦外集』(1957)、『管見集』(1950)、『文芸漫筆』(1985)、『李希凡文芸論著選編』(1988)ほかがある。
[丸山 昇]
『李希凡ほか著、竹内実訳『古典文学の評価』(1956・未来社)』