改訂新版 世界大百科事典 「郷約」の意味・わかりやすい解説
郷約 (きょうやく)
xiāng yuē
中国の郷村社会で道徳の実践と相互扶助をはかるために設けた規約。後世その団体をも郷約という。北宋の末,呂大鈞・呂大臨の兄弟がその郷里藍田(陝西)ではじめて行い,〈徳業相勧む。過失相規(ただ)す。礼俗相交わる。患難相恤(あわれ)む〉を四大綱領とし,〈呂氏郷約〉または〈藍田郷約〉と呼ばれた。その後,南宋の朱熹がこれを補訂して〈朱子増損呂氏郷約〉をつくり大いに普及した。郷約が最も盛んに行われたのは明の中期以後であり,当時解体化の傾向にあった郷村組織を再編成しようとする意味があったであろう。王守仁(陽明)が江西の南部で保甲法とともに施行した〈南贛(なんかん)郷約〉はとくに有名であるが,さらに明末になると呂氏の綱領に代わり,太祖の教育勅語ともいうべき〈六諭(りくゆ)〉の講解が中心となった。清初には明代の郷約がうけつがれたが,康煕帝は新たに〈聖諭16条〉を頒布し,雍正帝は注釈を加えて〈聖諭広訓〉を頒布した。
執筆者:谷 光隆
朝鮮
朝鮮の郷約hyang yakは李朝の中宗12年(1517),ハングルで書かれた《諺解呂氏郷約》を金安国が刊行したのに始まる。1904年まで地方で行われたが,士林派による地方秩序確立期にあたる中宗・明宗・宣祖朝の16~17世紀初頭,邪教(キリスト教)浸透期の正祖朝(1777-1800)の時期にさかんとなる。朝鮮の郷約は中国の郷約を導入したが,朝鮮の伝統的な相互扶助的民間組織である契を基盤として作られている点に特色がある。李栗谷,柳馨遠,安鼎福などの郷約が有名であり,特に李栗谷は朝鮮郷約の土台を築いた。本来は地方社会の自発的教化組織であるが,地方官が郷約を推進しており,統治的側面が強い。
執筆者:矢沢 康祐
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報