李淵(読み)リエン

デジタル大辞泉 「李淵」の意味・読み・例文・類語

り‐えん【李淵】

[565~635]中国の初代皇帝。在位618~626。あざなは叔徳。廟号びょうごう高祖に仕えたが、煬帝ようだい失政に乗じて挙兵し、長安に入って恭帝を擁立。618年、恭帝の禅譲を受けて即位し、群雄平定して唐を建国

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精選版 日本国語大辞典 「李淵」の意味・読み・例文・類語

り‐えん【李淵】

  1. 中国、唐の開祖で初代皇帝(在位六一八‐六二六)。廟号は高祖。隋に仕え、煬帝(ようだい)の失政に乗じて挙兵、長安に入り、恭帝を擁立して大丞相となった。六一八年煬帝が殺されると、恭帝から位を譲られ国号を唐とし、天下統一。(五六六‐六三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李淵」の意味・わかりやすい解説

李淵
りえん
(565―635)

中国、唐の初代皇帝(在位618~626)。廟号(びょうごう)は高祖。隴西(ろうせい)の李(り)氏といわれ、五胡(ごこ)十六国時代の西涼(せいりょう)の武昭(ぶしょう)王李暠(りこう)の子孫と称しているが、それには疑問がある。鮮卑(せんぴ)系の出自であろう。李淵の祖父の李虎(りこ)は、西魏(せいぎ)、北周の時代に、最高位の八柱国の一人となり、死後に唐国公を贈られ、父の李昞(りへい)がこれを継ぎ、唐という王朝名の起源となった。昞の妻の父独孤信(どっこしん)は鮮卑族で、李虎と同じく西魏の八柱国の一人であり、独孤信のもう一人の娘は隋(ずい)の文帝楊堅(ようけん)の皇后となっていた。したがって李淵は隋の文帝の甥(おい)にあたる。

 淵は隋代には、地方長官などを歴任し、煬帝(ようだい)の高句麗(こうくり)遠征のときには督運の任にあたり、隋末には太原(たいげん)(山西省太原市)留守(りゅうしゅ)の官となった。このころ天下は乱れ、群雄が各地に興っていた。そのとき淵は突厥(とっけつ)に対して出兵して失敗し、煬帝から逮捕令が出たので、淵の次子の世民(太宗)や太原地方の地方文武官の勧めで、大将軍府をたて、兵をおこした(617年7月)。李淵の軍は隋の首都大興(長安。陝西(せんせい)省西安)へ進撃し、その年11月に20万の軍で大興を占領して、煬帝の孫の代王楊侑(ようゆう)を立てて皇帝とし、煬帝を太上皇とし、大丞相(じょうしょう)府を開いた。618年3月、煬帝が江都(ごうと)(江蘇(こうそ)省揚州)で殺されたことを聞き、淵は代王侑より譲位の形式で、その年5月帝位につき、唐朝を開いて年号を武徳、首都を長安に定めた。ついで、世民を中心に群雄討伐を進め、一方、租庸調法を定めた。621年、唐朝の最大の敵である王世充、竇建徳(とうけんとく)の軍を破り、ほぼ唐朝の優位が決定したが、淵の在位中群雄との戦いは続いた。624年に武徳律令(りつれい)を公布したが、それは隋の開皇(かいこう)律令をほぼ踏襲したものであった。626年6月、玄武門の変が起こり、世民は兄の皇太子建成と弟の斉王元吉(げんきつ)を殺し、世民が皇太子となり、その年8月、世民が唐の第2代皇帝太宗となって、淵は太上皇となった。635年、71歳で死去した。

[布目潮渢]

『布目潮風・栗原益男著『中国の歴史 4 隋唐帝国』(1974・講談社)』


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「李淵」の解説

李淵(りえん)
Li Yuan

565~635(在位618~626)

の初代皇帝。廟号は高祖。隴西(ろうせい)(甘粛省)の李氏の出と称するが,族出身という説もある。隋の太原留守(長官代理)となり,隋末の乱に次子李世民(太宗)のすすめで挙兵し,長安を陥れ唐朝を建てた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「李淵」の解説

李 淵
りえん

565〜635
唐の初代皇帝,高祖(在位618〜626)
出身は隴西 (ろうせい) (甘粛)の李氏というが,鮮卑族系統説が有力。唐公を継承し,隋の太原留守となる。煬帝 (ようだい) の失政に乗じ,次子李世民 (せいみん) の勧めで挙兵。618年長安にはいって即位し唐と号す。群雄を平定(天下統一は628年で李世民の代)し,李世民(太宗)に譲位。

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改訂新版 世界大百科事典 「李淵」の意味・わかりやすい解説

李淵 (りえん)
Lǐ Yuān

高祖(唐)

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百科事典マイペディア 「李淵」の意味・わかりやすい解説

李淵【りえん】

高祖(唐)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李淵」の意味・わかりやすい解説

李淵
りえん

「高祖[唐]」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の李淵の言及

【高祖】より

…在位618‐626年。姓名は李淵。高祖は廟号。…

【隋】より

…したがって,隋末から唐初の10年間に,全土で数百という膨大な数にのぼった農民の蜂起は,直接には煬帝の暴政への反抗として現れるが,底流には反隋反中央集権の意識が脈うっていたとみなければならない。だがそうした農民の強い意欲から出発した反乱であったにもかかわらず,結局は隋と同じ〈関隴集団〉の系列に属する唐の李淵集団に屈服させられた。それはいいかえれば,広い視野と展望,隋に代わる新たな論理を用意できず,また一つにまとまりきれないという限界性をさらけ出した農民側と,太原(山西省)の地で隋の高官(太原留守)としてまとまった官僚集団と軍事力をもち,広範な人々の期待を結集することができた李淵(高祖)との違いによるものであった。…

【唐】より

…王室の李氏が北周王室の宇文氏,隋王室の楊氏とともに,北魏が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,唐の政治と制度には北周と隋のそれらを継承するものが多い。唐朝の国号は,李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け,また李淵が隋より唐王に進封されたことに由来するという。 隋末に各地で反乱を起こした群雄のうちに李淵・李世民父子がいた。…

※「李淵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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