李世民(読み)リセイミン

デジタル大辞泉 「李世民」の意味・読み・例文・類語

り‐せいみん【李世民】

[598~649]中国、の第2代皇帝。在位626~649。廟号びょうごう太宗。高祖李淵次男末、李淵の建国を助け、626年、李淵が帝位につくと玄武門の変によって兄弟を殺し、父の譲位を受けて即位。官制を整え、均田制租庸調制・府兵制科挙制などを確立し、房玄齢杜如晦とじょかいらの名臣を用いて「貞観じょうがんの治」とよばれる治世をもたらした。また、東突厥をはじめ四囲の諸民族を制圧したが、高句麗遠征には失敗。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「李世民」の意味・読み・例文・類語

り‐せいみん【李世民】

  1. 中国唐の第二代皇帝(在位六二六‐六四九)。廟号は太宗。隋末の乱に父李淵を助けて天下統一し、三省六部・租庸調などの諸制度を整備外征を行ない、唐の基礎を築いた。その治政は「貞観の治」として名高く、著書に「帝範」、臣下との問答に「貞観政要」がある。(五九八‐六四九

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「李世民」の意味・わかりやすい解説

李世民
りせいみん
(598/600―649)

中国、唐朝の第2代皇帝(在位626~649)。廟号(びょうごう)は太宗。中国史上有数の英主として知られる。西涼(せいりょう)(五胡(ごこ)十六国の一つ)の君主李暠(りこう)の子孫と伝えられるが疑わしく、その出自は明らかでない。北方民族の血も交えているらしく、北魏(ほくぎ)時代には武川鎮(ぶせんちん)(内モンゴル)に勤務する軍将の家柄であったが、西魏時代、世民の曽祖父(そうそふ)にあたる虎(こ)が、当時創建された府兵の最高司令官の一人となって以後、武人貴族として代々、北周、隋(ずい)に仕えた。父は淵(えん)(唐初代皇帝太祖)、母は竇(とう)氏。世民は生来聡明(そうめい)で思慮深く、武術、兵法に長ずると同時に、決断力や包容力も備えたので、少年時代から人々の信望を得た。隋の煬帝(ようだい)の暴政によって各地に反乱が起こり、国家崩壊の様相が色濃くなると、隋朝打倒を志し、太原(たいげん)方面の軍司令官であった父を説得して挙兵に踏み切らせ、長安を占領して唐朝を樹立した。以後、唐が各地の群雄を平定して国内の統一を実現したのは、20歳そこそこの彼の働きによるもので、これをねたむ兄皇太子建成、弟元吉(げんきつ)と争ってついに2人を殺し、626年父の譲位を受けて即位し、長孫無忌(ちょうそんむき)(鮮卑(せんぴ)系)の妹を皇后とした。ついで強敵突厥(とっけつ)をはじめ四囲の異民族を制圧し、諸部族の首長(しゅちょう)たちから天可汗(てんかかん)の尊号を奉られた。ここに唐は蕃漢(ばんかん)の両社会を包容する一種の世界帝国となった。

 太宗は煬帝の失敗にかんがみて名臣魏徴(ぎちょう)らの意見に耳を傾け、私心を抑え、民を哀れむ至公の政治に努めた。当時名宰相とうたわれた房玄齢(ぼうげんれい)、杜如晦(とじょかい)、名将として名高い李靖(りせい)、李勣(りせき)などがよくこれを助けたので、その治世は「貞観の治(じょうがんのち)」(貞観はその年号)とたたえられ、後世の帝王の模範とされた。その群臣との政治問答はのちに『貞観政要』という書名で編集され、わが国の為政者たちにも大きな影響を与えた。彼は学問、文化の愛好者でもあり、前代の各王朝史や『五経正義(ごきょうせいぎ)』の編纂(へんさん)を命じ、そのうち『晋書(しんじょ)』には自ら筆をとった。また王羲之(おうぎし)の書を熱愛し、とくに名品『蘭亭序(らんていじょ)』は死後墓中に納めるよう遺言したといわれるが、彼自身も流麗な筆跡を残している。しかし、よき後継者に恵まれず、晩年の高句麗(こうくり)親征の失敗も響いて、没後は政権に動揺をきたし、則天武后の革命を許すことになった。昭陵(陝西(せんせい)省)に葬られた。

[谷川道雄]

『谷川道雄著『唐の太宗』(1967・人物往来社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

旺文社世界史事典 三訂版 「李世民」の解説

李 世民
りせいみん

598〜649
唐の第2代皇帝,太宗(在位626〜649)
隋末期の混乱に乗じて父(李淵)に挙兵させ,唐の建国に大功をおさめた。父の即位後,秦王に封ぜられ尚書令となる。626年皇太子の兄を殺して即位,628年天下を統一。房玄齢 (ぼうげんれい) らの名臣を用いて官制を整備し,均田制・租庸調制・府兵制などを整え,文化を奨励して『群書治要』『晋書』『梁書』『五経正義』などを勅選した。対外的には東突厥 (とつけつ) ・吐蕃 (とばん) ・西域諸国・南海諸国を従え,“貞観 (じようがん) の治”といわれる盛時を現出した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「李世民」の意味・わかりやすい解説

李世民 (りせいみん)
Lǐ Shì mín

太宗(唐)

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「李世民」の意味・わかりやすい解説

李世民【りせいみん】

太宗(唐)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「李世民」の解説

李世民(りせいみん)

太宗(たいそう)〔唐〕

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李世民」の意味・わかりやすい解説

李世民
りせいみん

「太宗[唐]」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の李世民の言及

【高祖】より

…たまたま群雄の一人劉武周によって離宮汾陽宮が占拠され,責任者たる李淵は危地に立たされた。次子の李世民(太宗)や側近にうながされた李淵は,617年挙兵,兵3万をもって大将軍府を建て,李建成・李世民の2子にそれぞれ左右両軍を統率させて,汾水を下った。隋軍,群雄の抵抗を排して長安に入り,煬帝の孫代王侑(ゆう)を天子に奉じ,煬帝を太上皇とし,みずからは大丞相・唐王を称した。…

【太宗】より

…中国,朝の第2代皇帝。李世民。諡号(しごう)は文皇帝。…

【唐】より

…唐朝の国号は,李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け,また李淵が隋より唐王に進封されたことに由来するという。 隋末に各地で反乱を起こした群雄のうちに李淵・李世民父子がいた。この李氏は,武川鎮軍閥のなかでの家格は,隋王室の楊氏よりも上位であった。…

※「李世民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android