李靖(読み)りせい(その他表記)Lǐ Jìng

精選版 日本国語大辞典 「李靖」の意味・読み・例文・類語

り‐せい【李靖】

  1. 中国唐初の名将高祖太宗に仕え、突厥(とっけつ)吐谷渾(とよくこん)を討ち、唐の建国功績があった。(五七一‐六四九

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改訂新版 世界大百科事典 「李靖」の意味・わかりやすい解説

李靖 (りせい)
Lǐ Jìng
生没年:571-649

中国,唐代の名将。雍州三原県(陝西省三原県)の人。北周系官僚の家に生まれ,文武に長じた。隋末の混乱のなか李世民(後の太宗)の幕下に入り,蕭銑,輔公祏(ほこうせき)を滅ぼして江南平定,630年(貞観4)には東突厥(とつくつ)の征服に成功した。さらに635年には吐谷渾(とよくこん)に遠征してこれを下すなど,唐帝国の建設に殊勲を立てた。二十四功臣の一人として肖像画が凌煙閣に掲げられ,爵位衛国公を賜った。死後太宗の昭陵に陪葬され,その遺跡は今日なお残っている。兵書《李衛公問対》3巻は太宗との問答の形式をとるが,兵法家李靖に仮託した後人の著作であろう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李靖」の意味・わかりやすい解説

李靖
りせい
Li Jing; Li Ching

[生]天和6(571)
[没]貞観23(649).5.18.
中国,唐初の名将。京兆三原 (陝西省三原県) の人。字は薬師。諡は景武。初め隋に仕え,隋末の乱に唐軍に捕われたが,李世民 (→太宗) の知遇を得,その部将となって群雄平定に尽した。武徳8 (625) 年行軍総管として突厥と戦い,貞観3 (629) ~4年ついにその本拠を襲って頡利可汗 (けつりかがん) を捕える大功を立てた。のち吐谷渾 (とよくこん) に遠征し懐柔に成功,衛国公に封じられ,死後太宗の昭陵に陪葬された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李靖」の意味・わかりやすい解説

李靖
りせい
(571―649)

中国、唐の名将。本名は薬師。雍(よう)州三原(陝西(せんせい)省三原県)の人。父の詮(せん)は隋(ずい)の地方長官。靖は初め隋に仕え、唐の高祖李淵(りえん)に、斬られようとしたところを助けられ、李淵の子の李世民(後の唐の太宗)に仕え、群雄討伐や突厥(とっけつ)との戦いに活躍した。世民の即位後、大官を歴任し、とくに突厥や吐谷渾(とよくこん)との戦いでは有能な司令官であった。凌煙閣(りょうえんかく)に肖像を描かれた24人の功臣の1人で、李勣(りせき)と並ぶ二大名将である。太宗の昭陵では、とくに三山よりなる大きな陪塚(ばいちょう)に葬られた。

[布目潮渢]

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旺文社世界史事典 三訂版 「李靖」の解説

李 靖
りせい

571〜649
唐の武将
李勣 (りせき) らと並ぶ名将で,唐の太宗李世民を助けて天下統一を完成させた。突厥 (とつけつ) の本拠を討ち,吐谷渾 (とよくこん) の侵入を撃破して北西辺の平定に功績を立てた。

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