趙紫陽(読み)チョウシヨウ

デジタル大辞泉 「趙紫陽」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐しよう〔テウシヤウ〕【趙紫陽】

[1919~2005]中国政治家河南省出身。1938年中国共産党入党。1980年首相就任し、鄧小平補佐。1987年党総書記となる。1989年民主化要求運動を支持したため失脚した。チャオ=ズーヤン。

チャオ‐ズーヤン【趙紫陽】

ちょうしよう(趙紫陽)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「趙紫陽」の意味・わかりやすい解説

趙紫陽
ちょうしよう / チャオズーヤン
(1919―2005)

中国の政治家。河南(かなん)省滑(かつ)県生まれ。地主の家に育ち、初級中学卒業。小学校教師。1932年共産主義青年団に入り、1938年中国共産党入党。八路軍根拠地となった故郷で抗日ゲリラに参加、滑県党委員会書記となる。1940年冀魯豫(きろよ)辺区三専区党委員会書記。同年日本軍の八路軍討伐作戦にあうが脱出。国共内戦下の1947年劉伯承(りゅうはくしょう)・鄧小平(とうしょうへい)軍が大別山(だいべつさん)に進出したとき、桐柏山(とうはくさん)区党委員会副書記として土地改革に活躍。新中国成立後の1951年広東(カントン)省政府土地改革委員会副主任。1953年党華南(かなん)局農村工作部長。1955年広東省党委員会副書記として農業合作化を推進。1958年人民公社化で毛沢東(もうたくとう)を絶対支持。1965年陶鋳(とうちゅう)(1908―1969)が中南局書記のとき広東省党委員会第一書記となる。「文化大革命」期の1967年副首相の陶鋳が失脚し、趙も1968年失脚。1971年内モンゴル自治区党委員会書記に復活。1972年広東省革命委員会副主任。1973年党中央委員。1975年四川(しせん)省党委員会第一書記。1976年同省革命委員会主任兼成都部隊第一政治委員。「四人組」追放直後、四川で農業増産、工業自由化策を推進、請負責任制の先駆となる。1977年鄧小平派として党中央委員、中央政治局委員候補になる。1979年政治局委員。1980年2月政治局常務委員。同年4月副首相。鄧小平の片腕として、同年9月首相に就任。1981年党副主席、翌1982年政治局常務委員。1987年党総書記となるが、1989年市民学生による大規模な民主化要求運動を支持したため、同年6月の第二次天安門事件で失脚、その後は北京(ペキン)で事実上の軟禁生活を送った。

[高市恵之助・渋谷 司 2019年4月16日]

『田所竹彦著『北京迷走――鄧小平・胡耀邦・趙紫陽の軌跡』(1989・亜紀書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「趙紫陽」の意味・わかりやすい解説

趙紫陽
ちょうしよう
Zhao Zi-yang

[生]1919. 河南,滑
[没]2005.1.17. 北京
中国の政治家。大地主の家に生まれ,1932年中国共産主義青年団に入団,1938年中国共産党入党。抗日戦争中,河北山東,河南の抗日拠点で党委員会書記を務めた。解放後,1951年広東省で土地改革を指導,1953年華南分局農村工作部長,1965年広東省党委員会第1書記。文化大革命中の 1967年1月「中国のフルシチョフ (劉少奇) の代理人」と批判され,失脚。 1971年内モンゴル自治区党委員会書記として復活,1975年四川省党委員会第1書記として同省の経済改革に大きな成果を上げ,農業生産を毎年 10%前後高めた。 1973年以来,党中央委員,「四人組」失脚後の 1977年党政治局委員候補,1979年9月政治局委員,1980年2月政治局常務委員と党指導部の要職を歴任した。さらに 1980年4月国務院副総理 (副首相) ,9月華国鋒に代わって中国の第3代国務院総理 (首相) に就任。同職務を 1987年 11月まで務めた。経済改革,機構改革などで改革と開放政策を積極的に推進,鄧小平体制を支える主要な指導者の一人となった。 1987年 10月党中央委員会総書記,党中央軍事委員会第1副主席に選出され,政治改革,沿海地域発展戦略,社会主義初級段階の理論,社会主義商品経済新秩序建設などを打ち出した。 1989年6月民主化運動の責任を問われ (→天安門事件 ) ,すべての職務を解かれ党内審査の処分を受けた。

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百科事典マイペディア 「趙紫陽」の意味・わかりやすい解説

趙紫陽【ちょうしよう】

中国の政治家。河南省生れ。1938年中国共産党に入党し,抗日戦争中は地方幹部として活動。文化大革命で批判され,1967年に失脚したが,1971年に復活。1980年首相,1987年に胡耀邦(こようほう)に代わって中国共産党総書記に就任。1989年,天安門事件に象徴された学生・市民の民主化要求運動の責任者と糾弾され党内のすべての職務を解任された。
→関連項目温家宝江沢民中華人民共和国

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「趙紫陽」の解説

趙紫陽(ちょうしよう)
Zhao Ziyang

1919~2005

中国現代の政治家。河南省滑(かつ)県の人。1938年に中国共産党に入党,抗日戦を戦う。文化大革命で失脚するも復活後,広東省,四川省で頭角を現す。その成果が認められて80年に首相,87年に党総書記となって鄧小平(とうしょうへい)の改革・開放路線を遂行した。しかし,89年の天安門事件では民主化要求に譲歩しすぎたと批判されて,党総書記を解任された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「趙紫陽」の解説

趙 紫陽
ちょうしよう
Zhāo Zǐ-yǎng

1919〜  
現代中国の政治家,首相(在任1980〜87)・党総書記(在任1987〜89)
河北省出身。文化大革命で失脚したが復活(1971),華国鋒のあとを受けて首相に就任した(1980)。1987年には党総書記に就任し,開放路線をとったが,鄧小平らにその行き過ぎを批判され,第2次天安門事件(1989)の責任をとらされるかたちで失脚した。

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367日誕生日大事典 「趙紫陽」の解説

趙 紫陽 (ちょう しよう)

生年月日:1919年10月17日
中国の政治家
2005年没

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