中国の政治家。河南(かなん)省滑(かつ)県生まれ。地主の家に育ち、初級中学卒業。小学校教師。1932年共産主義青年団に入り、1938年中国共産党入党。八路軍根拠地となった故郷で抗日ゲリラに参加、滑県党委員会書記となる。1940年冀魯豫(きろよ)辺区三専区党委員会書記。同年日本軍の八路軍討伐作戦にあうが脱出。国共内戦下の1947年劉伯承(りゅうはくしょう)・鄧小平(とうしょうへい)軍が大別山(だいべつさん)に進出したとき、桐柏山(とうはくさん)区党委員会副書記として土地改革に活躍。新中国成立後の1951年広東(カントン)省政府土地改革委員会副主任。1953年党華南(かなん)局農村工作部長。1955年広東省党委員会副書記として農業合作化を推進。1958年人民公社化で毛沢東(もうたくとう)を絶対支持。1965年陶鋳(とうちゅう)(1908―1969)が中南局書記のとき広東省党委員会第一書記となる。「文化大革命」期の1967年副首相の陶鋳が失脚し、趙も1968年失脚。1971年内モンゴル自治区党委員会書記に復活。1972年広東省革命委員会副主任。1973年党中央委員。1975年四川(しせん)省党委員会第一書記。1976年同省革命委員会主任兼成都部隊第一政治委員。「四人組」追放直後、四川で農業増産、工業自由化策を推進、請負責任制の先駆となる。1977年鄧小平派として党中央委員、中央政治局委員候補になる。1979年政治局委員。1980年2月政治局常務委員。同年4月副首相。鄧小平の片腕として、同年9月首相に就任。1981年党副主席、翌1982年政治局常務委員。1987年党総書記となるが、1989年市民や学生による大規模な民主化要求運動を支持したため、同年6月の第二次天安門事件で失脚、その後は北京(ペキン)で事実上の軟禁生活を送った。
[高市恵之助・渋谷 司 2019年4月16日]
『田所竹彦著『北京迷走――鄧小平・胡耀邦・趙紫陽の軌跡』(1989・亜紀書房)』
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1919~2005
中国現代の政治家。河南省滑(かつ)県の人。1938年に中国共産党に入党,抗日戦を戦う。文化大革命で失脚するも復活後,広東省,四川省で頭角を現す。その成果が認められて80年に首相,87年に党総書記となって鄧小平(とうしょうへい)の改革・開放路線を遂行した。しかし,89年の天安門事件では民主化要求に譲歩しすぎたと批判されて,党総書記を解任された。
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