改訂新版 世界大百科事典 「東北凶作」の意味・わかりやすい解説
東北凶作 (とうほくきょうさく)
1934年7月末からの東北地方の冷害による大凶作。東北地方は1933年から34年にかけて大雪となり,多雪地方では5月上旬消雪のため,苗代の準備や播種(はしゆ)が遅れた。さらに7月末からの低温は,青森,岩手,宮城を中心とした東北6県に未曾有の冷害をもたらした。このため凶作は山間部,宮城北部以北の太平洋沿岸地方にひどく,稲作は青立不稔実状態,いもち病のため大損害をきたした。東北6県の作付け面積の96%が被害をうけ,平年作の60%に収量が低下した。稲作を含めた各種作物の被害は1億2300万円に及び,1930年の昭和恐慌の打撃に加えて,東北農村の惨状ははなはだしいものであった。税金が納められず鶏をも差し押さえられた者,小作料が払えず動産を差し押さえられた者。ワラビの根,ダイコンの葉,腐ったバレイショ,デンプンかす,ヨモギが常食の青森県,ヒエ飯,ヒエぬかを混ぜた飯,ナラ(楢)や栗の実,ワラビの根のデンプンをたたいただんご,ダイコン,干し葉,ネバナ葛,さらにはヒエがゆを食べている岩手県,国有林に入ってトチの実を求め,松皮餅,わら餅,ヤマゴボウ,豆腐かす,カボチャを食べている秋田県など,限りない悲惨な事実が報告されている。子女の身売りも多く,秋田県では34年9月までに1万1182人が芸娼妓見習,酌婦,女中,子守,女工となって離村したという。また欠食児童の大量発生も社会問題となった。空腹のあまり,授業中卒倒する児童が日に50~100名ぐらい出るありさまであり,生徒の体力低下は大きな問題となった。この東北凶作の社会的経済的背景には高率小作料に苦しむ零細小作農民における農業経営の劣悪さがあった。品種選定,苗の育成,栽培法に十分な資金,労力を投下しえず,出稼ぎ,養蚕等の副業への労力配分のため農業に専念しえない劣悪な諸条件が凶作被害をいっそう厳しいものとした。
政府は1934年9月の関西地方大風水害(室戸台風)とともに救済を図るべく,11月第66回帝国議会(臨時)を召集し,34年度に7060万円の応急土木事業,児童就学臨時奨励策,救農対策を実行,さらに12月東北振興調査会を設置,35年1月東北凶作地への政府所有米支給を決定した。これに対し立憲政友会や労農団体からは,その実効が少ないとして激しい批判がなされ,また東京,大阪,京都の労農団体は東北凶作救援運動に独自に取り組んだ。東北振興の掛声は36年の二・二六事件を経て5月東北振興株式会社と東北振興電力株式会社の設立に結実する。これは東北凶作と二・二六事件の衝撃が,東北農村問題を政治問題に押し上げた結果であった。35年の東北地方の小作争議件数は秋田県が436件と全国一を記録し,それに続く山梨,岡山を除けば宮城,福島,山形など東北に争議が集中していた。35年は戦前の小作争議件数で最高を記録した年であった。昭和恐慌以来,東北凶作,小作争議激化,二・二六事件,東北振興と続く一連のできごとは,30年代中期の農村問題が東北地方に移動・集中しつつあることをいみじくも示している。
→農山漁村経済更生運動
執筆者:森 武麿
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報