東郷村(読み)とうごうむら

日本歴史地名大系 「東郷村」の解説

東郷村
とうごうむら

[現在地名]隼人町東郷

桑原くわはら日当山ひなたやま西光寺さいこうじ村の南東にあり、金山きんざん川と霧島川との合流地点南西方を占める。東部を天降あもり川が南流し、対岸は囎唹そお清水きよみず姫城ひめぎ(現国分市)。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には、桑東くわのとう郷のうちとして東郷六町がみえる。貞治六年(一三六七)一〇月二七日の古河田薗堺実検帳写(同書)には故安慶薗と沢薗の四至表記に東郷がみられる。前者は「東北者限東郷内之畠、西者限隆幸之畠」、後者は「東者限東郷内之畠、南者限開発并宮主免之畠」の場所にあり、周辺に開発地が存在していた。


東郷村
ひがしごうむら

[現在地名]真岡市東郷

真岡三町の北東に位置し、村の中央を五行ごぎよう川が北から南に貫流する。古く芳賀はが大崎おおさきといい、のちに大内おおうち庄大崎、さらに後年若色わかいろ大前おおさきと称したという(「真岡町記録」中村八幡宮蔵)。現在東郷の通称として大前がある。宝徳三年(一四五一)三月五日の年記をもつ大般若経奥書(熊野神社蔵)に「大内庄若色郷渋河村」とみえ、亮恵がこれを書写している。現在大字西郷の通称に下渋川・沖渋川が残る。永正一一年(一五一四)一〇月一四日、塩谷孝綱は亡父長澗(宇都宮正綱)焼香分として当郷の梁内の地を高田専修たかだせんじゆ(現芳賀郡二宮町)へ寄進した(「塩谷孝綱寄進状」法雲寺文書など)


東郷村
とうごうむら

[現在地名]西郷町東郷

宇屋うや村の北東に位置し、集落は西郷湾の北の入江に臨む。東郷川が南流する。西部にある宮田くんだ城は守護佐々木氏の一流が隠岐氏を称して居城したともいわれ(出雲私史)、「隠州視聴合紀」では尼子勝久がいたという宮田の古城とし、南に八幡宮があり、小田おだ城下町であると記している。遺構は東西二七×南北一五メートルの主郭とみられる郭のほか東・南に数郭あり、一部に石積みや堀切が認められる。

正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田二一八石余・二〇町七反余、畑六八石余・四一町四反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)四〇匁・漁請役八〇匁・絞油七升八合役一五匁六分・核苧一貫五五〇目役四匁一分・牛皮三枚役丁銀七匁五分・茶四袋役六分、漆三合役は米二斗六升余で代納している。


東郷村
とうごうむら

[現在地名]八尾市東本ひがしほん町一―五丁目など

長瀬ながせ川の右岸にある八尾八ヵ村の一。西は寺内じない村・西郷さいごう村、北は木戸きど村、南は庄之内しようのうち村。摂津平野郷ひらのごう(現平野区)からきた八尾街道は、村内で立石たていし街道と信貴しぎ道に分れる。立石街道は東の山本やまもと新田を抜けて高安山麓の高安郡服部川はつとりがわ村に通じ、それより山越え道となる。信貴道は、南東方中田なかた村から刑部おさかべ村の北を通って同郡教興寺きようこうじ村・黒谷くろだに村に達し、そこから山越えの道となる。八尾八ヵ村のなかでは西郷とともに中心的な村落として発展した。応永六年(一三九九)の常光寺縁起(常光寺蔵)には、同寺の閻魔等身像を「八尾東郷西信禅門」が勧進主となって刻んだことがみえる。


東郷村
とうごうむら

[現在地名]平田市東郷町

東福とうふく村の北東にあり、耕地は北山山地に続く低山地とその麓に開ける。村域は東西六町余・南北九町余ほどで、北から東は岡田おかだ村、北西は野石谷のしだに村。村の南部を東西に走る往還(幅一間一尺―二間)は平田村ぶんとの境を画し、東福村・野石谷村へもそれぞれ往還路があった(明治六年「地理取調書」県立図書館蔵)。中世楯縫東たてぬいとう郷の遺称地とされる。近世には楯縫郡に属し、初めは岡田村・野石谷村をも含んでいたが、寛文―延宝年中(一六六一―八一)頃両村は当村から分離した。


東郷村
とうごうむら

[現在地名]宗像市東郷・さと三―四丁目

久原くばら村の北、つり川中流左岸に位置する。東江村とも書いた。小早川時代の指出前之帳では田熊たぐま村を含む東郷村の田一二五町三反余(分米二千一六五石余)・畠三四町一反余(分大豆三〇〇石余)。文禄三郡内知行方目録によると鞍手くらて郡「とうかう村」の二千五三一石余が小早川隆景に宛行われている。慶長九年(一六〇四)の宗像郡「東江村」の検地高一千四一五石余、うち大豆二三七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千四一六石余、人数三六〇(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。元禄一三年六月の洪水で村内当木とうきの人家が多く流亡したため、当時の代官大森善左衛門が人家を西方山手に移し、川を旧人家の東に掘替えた。


東郷村
ひがしごうむら

[現在地名]九度山町東郷

河根かね村の南東、雪池山より出て北流する三尾みお(丹生川支流)流域にある山村。東は北又きたまた村、西は西郷にしごう(現高野町)。村域の東、三尾川支流の谷奥に小名野平のだいらがある。天正一九年(一五九一)一〇月二一日付の豊臣秀吉朱印状(興山寺文書)に「八拾石 にしかう ひかしかう」とみえる。慶長一〇年(一六〇五)七月の高野山衆徒中寺領目録(又続宝簡集)には「伊都郡六ケ内東郷村」として高四一・二一石、うち田方が二五・四石(二町二反)、畠方が大豆石で一五・八一石(二町)とある。


東郷村
とうごうむら

[現在地名]菟田野町大字東郷

駒帰こまかえり村東方、宇賀志うかし川と芳野ほうの川合流点に立地。宇太水分神社古図には「東河」と記し、「大和志」には「旧名東野あつまの」とありアズマ地蔵がある。「万葉集」巻一の柿本人麻呂の歌「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」とある東野とする説もある。明治二一年(一八八八)の村合併願書によれば永正二年(一五〇五)東野あずまの村を東郷村に改称したという。

慶長郷帳の村高一二九・五八石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。


東郷村
とうごうむら

[現在地名]南区弥永やなが三―五丁目

弥永村の南東にある。東は上白水かみしろうず村・下白水村(現春日市)。江戸時代前期には下東郷村ともいい(慶長石高帳など)元禄国絵図・天保郷帳には東江村と記される。小早川時代の指出前之帳では下東郷村の田一四町二反余(分米一九二石余)・畠一反余(分大豆六斗余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は二〇八石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二〇八石余、家数一八・社一、人数八〇(田圃志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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