日本大百科全書(ニッポニカ) 「松方正義内閣」の意味・わかりやすい解説
松方正義内閣
まつかたまさよしないかく
明治中期に松方正義を首相として組織された第一次、二次の内閣。
[阿部恒久]
第一次
(1891.5.6~1892.8.8 明治24~25)
第一次山県有朋(やまがたありとも)内閣の後を継いで成立した第4代内閣。超然内閣である。成立直後大津事件が起こり、その処理後に本格的に始動。積極財政方針を掲げ、1891年11月からの第2議会に、軍艦建造費・製鋼所設立費を含む予算案、鉄道敷設法案などを提出した。これに対して自由党、立憲改進党などの民党は民力休養を主張、新規事業の多くを否決、予算の約1割削減を要求した。この間、軍艦建造費をめぐり樺山資紀(かばやますけのり)海相が藩閥擁護の「蛮勇演説」を行ったこともあって、政府と民党の対立は激化し、政府は12月末ついに議会を解散した。翌1892年2月の総選挙では品川弥二郎(しながわやじろう)内相を中心に死者25人を出す大々的選挙干渉を行い、民党派のけ落としを図ったがならず、逆に伊藤博文(いとうひろぶみ)や陸奥宗光(むつむねみつ)農相らから強い批判を受け、3月品川内相が辞任、さらに5月召集の第3特別議会では、選挙干渉に関し内閣弾劾決議が採択されるに至った。7月元改進党副総理の河野敏鎌(こうのとがま)法相が内相を兼任、選挙干渉に関与した内務次官、知事らを免官したことから、首相の指導力の欠如もあって閣内対立が表面化し、同月30日総辞職、8月8日成立の第二次伊藤内閣に引き継いだ。
[阿部恒久]
第二次
(1896.9.18~1898.1.12 明治29~31)
第二次伊藤内閣にかわり成立した第6代内閣。組閣は難航し、1896年9月28日ようやく完了。進歩党と提携し、その実質的な党首大隈重信(おおくましげのぶ)を外相に迎えたが、他の主要ポストは薩閥(さつばつ)が占め、蔵相は首相が兼任した。提携の報酬として多くの進歩党員が局長、知事などに就任。松隈内閣(しょうわいないかく)ともいう。日清(にっしん)戦後経営の遂行のため、軍備拡張、教育・農商工業の発達を課題とした。政綱には大隈の主張をいれ、言論・出版・集会の自由尊重を掲げたが、同年11月宮内省が長閥に支配されていると書きたてた雑誌『二十六世紀』などの処分問題で、早くも動揺。かろうじてそれを乗り切り、第10議会で金本位制実施のための貨幣法、貿易振興関連諸法、1億3000万円余の軍拡予算(歳出総額の約49%)などを成立させた。しかし、こうした路線の結果、財源に窮し、ついに首相は第11議会に地租増徴案を提出しようとした。このため進歩党との提携は破綻(はたん)し、1897年11月大隈は閣外に去った。12月同議会開会まもなく自由党、進歩党などより内閣不信任案が提出されると政府は議会を解散し、同月28日総辞職、翌年1月12日成立の第三次伊藤内閣に引き継いだ。
[阿部恒久]
『徳富猪一郎著『公爵松方正義伝 坤巻』(1935・同伝記発行所)』▽『林茂・辻清明編『日本内閣史録1』(1981・第一法規出版)』