河野敏鎌(読み)コウノトガマ

デジタル大辞泉 「河野敏鎌」の意味・読み・例文・類語

こうの‐とがま〔かうの‐〕【河野敏鎌】

[1844~1895]政治家土佐藩出身尊王攘夷派として活躍。明治15年(1882)立憲改進党を結成し副総理となったが、のち脱党。農商務・司法・内務・文部の各大臣を歴任。

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精選版 日本国語大辞典 「河野敏鎌」の意味・読み・例文・類語

こうの‐とがま【河野敏鎌】

政治家。子爵。土佐藩(高知県)出身。幕末、尊王攘夷運動に加わり入獄。維新後、新政府に仕え、大隅重信と結び立憲改進党の副総理となったが脱党し、以後枢密顧問官、第一次松方内閣の農商務相、法相、内相、第二次伊藤内閣の文相を歴任する。天保一五~明治二八年(一八四四‐九五

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朝日日本歴史人物事典 「河野敏鎌」の解説

河野敏鎌

没年:明治28.4.24(1895)
生年:弘化1.10.20(1844.11.29)
幕末の土佐(高知)藩士勤王志士,明治政府官僚,政治家。土佐藩士河野通好の長男。通称万寿弥。安政末年江戸に遊学,儒者安井息軒に師事。江戸滞在中の武市瑞山意気投合,文久1(1861)年8月土佐勤王党結成に参画,9月瑞山と共に帰郷し同志を糾合した。2年,藩主山内豊範を擁して入京,勤王運動に努めた。3年藩論は再び公武合体に転じ勤王党の獄が起こり,敏鎌も禁獄,永牢に処せられた。維新後赦免され,明治2(1869)年以後大蔵省7等出仕,広島県参事などを経て5年司法少丞。欧州出張(1872~73)。帰国後司法大丞兼大検事。内務卿大久保利通に信頼され権大判事となり佐賀の乱(1874)関係者を裁断。8年元老院議官。西南戦争(1877)終結後,臨時裁判所裁判長となり戦犯審理をつかさどった。13年文部卿,14年農商務卿。14年政変で下野。15年大隈重信の立憲改進党創設に参画して副総理に就任,17年解党を主張して党を離れた。枢密顧問官(1888~92),農商務大臣兼司法大臣(第1次松方正義内閣),内務大臣(同前),文部大臣(第2次伊藤博文内閣)を歴任して26年子爵。<参考文献>瑞山会編『維新土佐勤王史』,寺石正路『土佐偉人伝』

(福地惇)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「河野敏鎌」の意味・わかりやすい解説

河野敏鎌
こうのとがま
(1844―1895)

明治前期の政治家。天保(てんぽう)15年10月19日生まれ。土佐藩出身。江戸に出て安井息軒(やすいそくけん)に学び、帰郷後、武市瑞山(たけちずいざん)らと尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を進めたが、1863年(文久3)藩論が佐幕に転じ、投獄された。1869年(明治2)江藤新平の推挙で待詔(たいしょう)局に出仕し、1872年渡欧。佐賀の乱(1874)では裁判長として江藤ら反乱軍を厳罰に処した。元老院副議長、文部卿(もんぶきょう)、農商務卿を歴任したが、「明治十四年の政変」で辞職し、翌年立憲改進党の副総理となった。1884年、解党論がいれられず脱党。1892年以後、農商務、司法、内務、文部の各大臣を歴任。明治28年4月24日死去。

[大日方純夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「河野敏鎌」の意味・わかりやすい解説

河野敏鎌 (こうのとがま)
生没年:1844-95(弘化1-明治28)

明治前期の政治家。土佐藩士の子として生まれ安井息軒に学び,やがて尊王攘夷運動に奔走,藩が佐幕に急転したため投獄された。維新後釈放され江藤新平の世話で新政府に仕えたが,佐賀の乱では恩人江藤を極刑に処した。明治14年の政変(1881)で大隈重信に殉じて辞職,立憲改進党副総理となるが,1884年解党論が敗れ脱党。88年枢密顧問官,91年第1次松方正義内閣の農商務・司法・内務大臣,92年第2次伊藤博文内閣の文部大臣を歴任。93年子爵となる。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河野敏鎌」の解説

河野敏鎌 こうの-とがま

1844-1895 幕末-明治時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)15年10月20日生まれ。土佐高知藩士。勤王派にくわわり投獄される。維新後,江藤新平の世話で新政府につとめ,佐賀の乱では裁判官として江藤を断罪した。のち立憲改進党副総理。第1次松方内閣の農商務相,法相,内相,第2次伊藤内閣の文相。子爵。明治28年4月24日死去。52歳。幼名は万寿弥。

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世界大百科事典(旧版)内の河野敏鎌の言及

【嚶鳴社】より

…明治初期の政治結社。1874年9月,司法省にあった沼間守一(ぬまもりかず)は河野敏鎌らと,民衆に法律思想を啓蒙するため法律講義会を開き,西南戦争後嚶鳴社と改称,欧米の新思想を研究し,公開講演会などで自由民権を主張した。東京における民権運動の母体として社員1000名を擁したが,79年官吏の職務外政談演説が禁止されたため沼間は元老院を退官,社は1/3の官吏社員を失った。…

【学校】より

…この教育令では学校の種類は小学校,中学校,大学校,師範学校,専門学校のほか,〈各種ノ学校〉とされた。この自由教育令により就学率の低下や校舎建築中止などが起こり,文部卿河野敏鎌は〈苟モ文明ヲ以テ称セラルル国ニシテ普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ務メトセサルハナシ〉とし,早くも翌80年3月には教育令改正に着手,12月には改正教育令を公布した。そこでは,学校事務管理のための学務委員を,教育令では町村住民による選挙で選出するとされていたのを府知事・県令の任命制に改めたのをはじめ,学校の設置・管理に対する地方長官による統制を強め,小学校の教科では,初めて修身を先頭に置いて道徳教育を重視する方針をとった。…

※「河野敏鎌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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