デジタル大辞泉 「松村」の意味・読み・例文・類語 まつむら【松村】 姓氏の一。[補説]「松村」姓の人物松村栄子まつむらえいこ松村景文まつむらけいぶん松村月渓まつむらげっけい松村謙三まつむらけんぞう松村松年まつむらしょうねん松村任三まつむらじんぞう 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「松村」の解説 松村まつむら 徳島県:鳴門市松村[現在地名]鳴門市大麻町松村(おおあさちようまつむら)西馬詰(にしうまづめ)村の北にある。同村から北東部大谷(おおたに)村境に向かう道と、南西高畠(たかばたけ)村境に至る道がある。慶長二年(一五九七)の分限帳に松村とあり、置塩領四二六石余。同八年徳島藩領となる。同一三年の検地帳(享和三年写、鳴門市役所蔵)によれば田二二町九反余・分米三五七石余、畠一町七反余・分米二一石余、居屋敷七反余・分米九石余の分米計三八八石余、ほかに桑二三〇本・分米六斗余とある。正保国絵図では高四二五石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳には田方三九三石余・畠方三二石余とあり、水損と注記される。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高一石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高四三七石余。「阿波志」では土田は反別二九町五反余、高四三八石余の四分の三は采地とある。 松村まつむら 石川県:金沢市旧石川郡地区松村[現在地名]金沢市松村一―七丁目・松村町宮腰(みやこし)往来の南、藤(ふじ)江村の西に位置する。古くは笠松(かさまつ)村といっていたものが、のちに笠が略され地名になったという伝承もあった(加賀志徴)。中世には大野(おおの)庄のうち。建武四年(一三三七)足利尊氏は前年臨川寺(現京都市右京区)に寄進したものの同寺が辞退した「大野庄内藤江・松村両村」を山城真如(しんによ)寺(正脈庵、現京都市北区)に造営料所として寄進している(同年四月二八日「足利尊氏御教書」臨川寺重書案文)。ところで南北朝期頃のものと維定される大原寺務領目録(久我家文書)に加賀国分としてこの両村など大野庄内四ヵ村の村の村名がみえ、一時期大原(おおはら)(現京都市左京区)の延暦寺別院領となっていた。 松村まつむら 兵庫県:西宮市松村武庫(むこ)西条四条一三里から同五条一五里付近にあった中世の村。一帯には松村庄もあった。慶長国絵図には中国街道沿い、現西宮市上鳴尾(あげなるお)町付近に松村の記載がある。建久二年(一一九一)一〇月の長講堂領目録(島田文書)の「不所課庄々」のうちに「松村」とあり、後白河法皇の御所六条殿(跡地は現京都市下京区)内に設けられた長講堂の所領で、同法皇皇女宣陽門院に伝領された。貞応三年(一二二四)以後と推定される宣陽門院領目録(同文書)に庁分として摂津国松村庄がみえ、中納言局が領家職か預所職をもっており、文永七年(一二七〇)の下司は左衛門尉重宗であった(同年七月一二日「錦部行守等連署紛失状案」大徳寺文書)。 松村まつむら 岡山県:久米郡久米南町松村[現在地名]久米南町松西山寺(にしやまじ)村の北西に位置し、北は南庄西(みなみしようにし)村。西の上籾(かみもみ)村方面から石(いし)川が流れる。正保郷帳に村名がみえ、田一七七石・畑一三三石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高四八石余・開高二五石余、村位は中。「作陽誌」では家数三八、男一三六・女一〇六。元文四年(一七三九)の村鑑帳(久米南町誌)に記す溜池は九ヵ所であるが、元禄九年の年貢割付状(同書)では剣田(けんだ)(見田)池がみえ、堤番給分が差引かれている。津山藩森氏断絶後は幕府領、元禄一四年甲斐甲府藩主徳川綱豊領、宝永六年(一七〇九)幕府領、延享二年(一七四五)播磨三日月藩預、宝暦一三年(一七六三)下総古河藩領、文政七年(一八二四)幕府領、同九年より再び古河藩領(美作国郷村支配記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報