松瀬村(読み)まつぜむら

日本歴史地名大系 「松瀬村」の解説

松瀬村
まつぜむら

[現在地名]多久市東多久町ひがしたくまち納所のうそ 松瀬・柳瀬やなぜ一帯

唐津往還の古賀こが宿から牛津川皆木みなきの渡で西岸に出ると、両子ふたご山系北端の皆木山・松瀬山の麓を杵島きしま渠が通り、これに沿うように牛津へ向かって道が延びる。皆木山山裾の小突端を過ぎると前方に御制符(邑の直轄地)松瀬山の山裾が幅広く平地部に突出し、この山裾一帯に松瀬の集落がある。平地部まで山麓が急傾斜で延び、水田山地杵島渠と道によって画然と分離されている。

郷村としては「丹邱邑誌」の承応二年(一六五三)の「邑中正税」に「小城郡西郷内(中略)納所内松瀬村」の記載がある。次いで、同書の貞享二年(一六八五)の「邑中租税」には松瀬村とのみ記載されている。

松瀬村内の小集落として、同書に、「柳瀬・石倉・後久保・郷六・北坊・平台・石原」をあげ、「上古片山里ト云、中比諸松村ト云シ」としている。柳瀬村・石原いしわら村は正保絵図にみえる。

小集落のうち、石原は飛地で、両子山系の北西端大佐古おおさこ山の西麓に位置し、松瀬村からは両子山系の尾根を越えた反対側の方向である。


松瀬村
まつせむら

[現在地名]川辺町松瀬

玄子げんこ村の東、日高川の湾曲した内側に位置し、南は和佐わさ村、東は伊藤川いとご村。「続風土記」は「川辺にして松樹多きより名とす」と記す。慶長検地高目録によれば村高一三七石余、小物成二斗八升四合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑一四町一反余、高一五二石余、家数五一で内訳は本役五・半役二三・無役一八・庄屋一・年寄三など、人数二一二、牛一二、馬三、舟三、池四、御蔵一。


松瀬村
まつせむら

[現在地名]野上町松瀬

釜滝かまたき村の西南、西流する真国まくに川の北側に中心集落があるが、対岸にも飛地がある。村の西方で真国川は貴志きし川に合流する。中世高野山領志賀野しがの庄に含まれたが、「続風土記」は守護畠山氏の子孫という柳沢氏が天正から寛永(一五七三―一六四四)頃まで当村を知行し、その後も地士として残っていると記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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