林和(読み)りんわ(英語表記)(R)Im Hwa

改訂新版 世界大百科事典 「林和」の意味・わかりやすい解説

林和 (りんわ)
(R)Im Hwa
生没年:1908-53

朝鮮のプロレタリア詩人,文芸評論家。本名は林仁植。普成高等普通学校を経て1929年東京に留学,帰国後32年からカップ朝鮮プロレタリア芸術同盟書記長。35年カップの解散後は古典研究,近代文学史研究,朝鮮文庫の経営に身をやつす。解放直後に朝鮮文学建設本部をソウルで李源朝,金南天らと設立。これは翌46年2月,朝鮮文学家同盟に発展するが,その間,林和は封建的文化・植民地的文化を排除し,〈近代的な意味での民族文学〉の樹立を追求して左翼文学の理論的指導者であった。47年,妻の池河蓮とともに38度線を越えて北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を選択したが,53年8月,平壌の軍事裁判においてアメリカ諜報機関のスパイとして死刑判決うけ,処刑された。林和の業績は,まず叙情的なプロレタリア詩人として詩集《玄海灘》(1938),《讃歌》(1947)など芸術性の高い作品活動を旺盛に展開し,第2に評論《文学の論理》(1940)をはじめ文芸批評家,文学史家として尽力し,第3に文学運動の組織者として高い指導性を発揮したことにある。政治的脈絡なかで南朝鮮労働党系に属した林和の〈スパイ〉行為真偽は知りえないが,彼の生の軌跡には時代をまさぐりつつ生きた情熱が刻印されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林和」の意味・わかりやすい解説

林和
りんわ / イムファ
(1908―1953)

朝鮮のプロレタリア詩人、文芸理論家。本名は林仁植。ソウル生まれ。1929年東京に留学、帰国後32年から朝鮮プロレタリア芸術同盟書記長。35年同盟が日本により強制解散させられると文学史研究に沈潜。解放直後ソウルで朝鮮文学家同盟を組織、47年に38度線を越えて北朝鮮に入ったが、53年朴憲永(ぼくけんえい)につながるアメリカのスパイとして処刑された。中野重治(しげはる)の『雨の降る品川駅』への応答詩『雨傘さす横浜の埠頭(ふとう)』(1929)は、彼の叙情的プロレタリア詩の代表作の一つである。詩集『玄海灘(げんかいなだ)』(1938)、評論集『文学の論理』(1940)ほかの著書がある。

大村益夫]

『松本清張著『北の詩人』(1964・中央公論社)』『現代朝鮮研究会訳編『暴かれた陰謀』(1954・駿台社)』

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百科事典マイペディア 「林和」の意味・わかりやすい解説

林和【りんわ】

朝鮮の詩人,文学評論家。本名は林仁植。1932年に第2次方向転換期のKAPF(朝鮮プロレタリア芸術同盟)の書記長となる。KAPF解散後は文学史研究も行う。解放後は文学運動の中心で活躍するが,北に渡った後,南朝鮮労働党系の粛清で死刑となる。詩《十字路の順伊》《お兄さんと火鉢》,詩集《玄海灘》,評論集《文学の論理》など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林和」の意味・わかりやすい解説

林和
りんわ

イム・ファ(林和)」のページをご覧ください。

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