古代の柵あるいは城柵の遺跡。柵は「き」ともいい、木杭(くい)を立て並べ、横木を通して設けた施設をいうが、城とあわせて城柵として用いる場合もある。『日本書紀』皇極(こうぎょく)天皇3年(644)条には蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)が屋敷の外に城柵をつくったという記事がみられる。その後『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』に柵が続出する。大化(たいか)3年(647)条には渟足柵(ぬたりのき)、4年条には磐舟柵(いわふねのき)、和銅(わどう)2年(709)条に出羽柵(いではのき)、天平(てんぴょう)9年(737)条に多賀柵(たがのき)をはじめ玉造(たまつくり)、新田(にいた)、牡鹿(おじか)、色麻(しかま)の各柵、天平宝字(ほうじ)2年(758)条には桃生柵(もものうさく)(桃生城)などが設けられたことがみられる。いずれも東北地方に集中し、7~8世紀における蝦夷(えぞ)に対する軍事拠点として位置づけられる。これらの柵は、多賀柵が今日の多賀城(宮城県多賀城市)として認められている以外は、その地域は明確ではない。
文献上の記載はないが、かつて柵列址が発見され柵の名称が与えられた遺跡に城輪柵(きのわのさく)跡(山形県酒田市城輪)と払田柵(ほったのさく)跡(秋田県大仙(だいせん)市・美郷(みさと)町)がある。城輪柵は、各種建物跡を包含する1辺約115メートルの方形の内郭と、これを囲む1辺約723メートルの方形の外郭がある。昭和の初めに外郭にあたる部分から25センチメートル角の角柱根列が発見された。しかし近年の発掘調査によって、この杭列は築地塀(ついじべい)の基礎部分とされ、その年代は伴出の瓦(かわら)から10世紀後半に築かれたものと推定された。払田柵は、長森(ながもり)と真山(しんざん)という二つの小独立丘陵を取り囲んで外郭線が設けられ、長森丘陵を囲んで内郭線が検出されている。外郭線は東西約1350メートル、南北約720メートルの不整楕円(だえん)形であって、幅約60センチメートル、深さ約70センチメートルの堀の中に、30センチメートル角の杭がすきまなく立ち並んでいる。伴出の土器から9世紀後半と推定されている。以上のような様相をもつ柵列は、胆沢(いさわ)城(岩手県奥州(おうしゅう)市)、徳丹(とくたん)城(岩手県矢巾(やはば)町)、郡山(こおりやま)遺跡(宮城県仙台市)、多賀城、秋田城などでも発見されている。柵址は奈良、平安時代の城柵構造を知るために重要な遺構である。
[櫻井清彦]
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