栗栖村(読み)くるすむら

日本歴史地名大系 「栗栖村」の解説

栗栖村
くるすむら

[現在地名]和歌山市栗栖

名草なくさ郡に属し、西は松島まつしま村、南東は岩橋いわせ村。小名に西栗栖にしぐるす・南栗栖・東栗栖・馬場栗栖ばばぐるす八軒屋はちけんや、枝郷に出島でじま村がある。中世は栗栖庄の地。永禄五年(一五六二)七月吉日付湯河直春起請文(湯河家文書)に、雑賀一揆なかつ郷に「栗栖 四郎大夫殿」がみえる。

慶長検地高目録によると高一千九七一石余、小物成一升三合。和佐組に属し、「続風土記」では一千七一九石余、家数一六九、人数六二二。枝郷出島村は高二八三石二斗九升八合。

栗栖村
くりすむら

[現在地名]佐伯町栗栖

中道なかみち村の東に位置する。四方を山に囲まれ、中央を木野この川が流れ、石見津和野路の街道沿いに集落が展開する。弘治三年(一五五七)一〇月二八日付の毛利隆元判物(「閥閲録」所収井上甚左衛門家文書)に「山里之内栗栖上下田四拾貫七百」とあり、当時は山里やまざとと総称される地のうちであり、上栗栖かみくりす・下栗栖の呼称があったことが知られ、毛利氏家臣井上神左衛門の給地であった。

慶長六年(一六〇一)の検地で畝数一三町五反余・高一三一石余となる(国郡志下調書出帳)。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳は「くるす村」と記す。広島藩領で、家老上田家給知。文化三年(一八〇六)の「佐伯郡廿ケ村郷邑記」に「土地中、作地狭、上ミ栗栖日受吉、下栗栖日蔭北請也、(中略)産物産業、第一炭焼木挽枌師也、寛政五年より他売他業ヲ禁ス、丸炭・中炭・はり満炭・かき炭・雑木炭・諸板・榑・松枌等ヲ出ス」とある。

栗栖村
くりすむら

[現在地名]犬山市栗栖

北と西は木曾川を挟み美濃国加茂かも郡・各務かがみ郡に、南は継鹿尾つがお村、東は美濃国可児かに郡に接する。栗須村とも記された。「寛文覚書」は「庄不知」とするが、「府志」「徇行記」は「小弓庄」と記す。成瀬隼人正采地村。高一三六石余、田二町二反二畝余・畑一〇町三反八畝余、ほかに成瀬隼人正開発の畑一町一反七畝余、松山六二〇町四反。

栗栖村
くるすむら

[現在地名]多賀町栗栖

一円いちえん村の東にあり、村の中央をせり川が流れる。永禄元年(一五五八)五月二六日の馬場若狭守殿御宿所(専行寺文書)に「栗栖」とあり、百姓らの喧嘩のことがみえる。慶長高辻帳に村名がみえ、高二六〇石余。元禄八年大洞弁天寄進帳では男一五五・女一三三、寺社方男一・女一。当村は芹川に設けられた一五ヵ所の井堰のうち七ヵ所から引水していたようである(久徳共有文書)。太古の昔、伊邪那岐尊・伊邪那美尊が伊勢から五僧ごそう峠を越え、すぎ坂を経て急坂にかかると苦しいといい、これが転じて栗栖の地名になったという。休息した行宮を前身とする伝承をもつのが当地の調宮ととのみや神社で、この両尊を祭神とする多賀大社とも関係が深く、同社古例祭の春祭では栗栖旅所への神幸がある。

栗栖村
くるすむら

[現在地名]能勢町栗栖

山辺やまべ川下流域の丘陵山林地域に位置し、北東は大谷おおたに山を隔てて大里おおざと村。大谷山上に吉村よしむら城跡、字森谷もりたにに水原氏の居城と伝える栗栖城跡がある。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)森上もりがみ村の項に、南北朝初期と推定される栗栖氏の名がみえ、永禄二年(一五五九)二月九日の能勢郡諸侍書上覚写(井戸家文書)に栗栖村諸侍も書上げられている。

栗栖村
くりすむら

[現在地名]朝地町栗林くりばやし 栗栖

中熊なかぐま村の東にある。正保郷帳に村名がみえ、田高六六石余・畑高一二二石余、一万田いちまんだ郷に属し、茅山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高一一二石余。安永七年(一七七八)には梨原組に属し、同組大庄屋安兵衛の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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