桃井直常(読み)もものい・ただつね

朝日日本歴史人物事典 「桃井直常」の解説

桃井直常

生年:生没年不詳
南北朝時代武将。貞頼の子。兵庫助,駿河守,刑部大輔,右馬権頭,播磨守。建武4/延元2(1337)年陸奥から後醍醐天皇方の北畠顕家が攻め上った際,足利尊氏の次男義詮 に従ってこれを追撃し,翌年奈良に破る勲功をあげた。その功を高師直が無視したために,観応1/正平5(1350)年の観応の擾乱では尊氏に反して直義方に走ったともいわれるが,若狭(福井県)守護になったのはこの直後である。その後伊賀(三重県)守護を経て,康永3/興国5(1344)年に越中(富山県)守護となってからはここを本拠とする。観応の擾乱では一貫して直義党の中核担い,観応2/正平6年1月には越中から大軍を率いて入京し,尊氏・義詮父子を追い出した。翌2月尊氏,直義が和睦し直義が幕政を握ると引付頭人に起用されている。しかし同年8月直義が越前に逃げると,このときの尊氏との和睦交渉には最後まで反対し,直義が殺されたあとも山名氏ら直冬党,南朝勢力と結んで越中に勢力を保ち,文和4/正平10年には入京して尊氏を近江に追った。貞治1/正平17年越中で室町幕府軍に敗れ,京都を経て関東管領足利基氏のもとに逃れるが,貞治5/正平21年に基氏が死ぬと,出家して幕府に帰順し,越中守護には失脚した斯波氏に代わって弟直信が任じられた。しかし,翌年斯波氏が幕府に復帰すると再び圧迫を受けて,応安1/正平23年越中に逃げた。直信に代わって同国守護となった斯波義将と3年間戦った末敗れ,以後消息を絶つ。<参考文献>『富山県史/通史編』Ⅱ

(河村昭一)

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改訂新版 世界大百科事典 「桃井直常」の意味・わかりやすい解説

桃井直常 (もものいなおつね)

南北朝期の武将。生没年不詳。〈ただつね〉ともよむ。足利一門。貞頼の子。建武以来足利氏に属し,駿河守,刑部大輔,右馬権頭,播磨守,若狭・伊賀・越中の各国守護を歴任。1338年(延元3・暦応1)南朝救援のため奥州から西上した北畠顕家軍を南都に破り,武名を高めた。観応の擾乱(じようらん)に際しては終始足利直義側に立って活躍,50年(正平5・観応1)直義の挙兵に応じて越中より大軍を率いて入洛,直義側を勝利に導くなど,室町幕府政治史に大きな足跡を残した。翌年直義が北国に走るとこれに従い,なおも尊氏・直義の和睦に反対した。52年直義が毒殺されたのちは,父尊氏からうとまれた直冬や南朝にくみして幕府への抵抗を続けたが,67年足利基氏の死没に際して出家しているので,基氏とはある時点より密接な関係をとりむすんでいたらしい。この後もたびたび北陸で反幕府の兵を挙げたが打ち破られた。以降の足どりは明らかでない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桃井直常」の意味・わかりやすい解説

桃井直常
もものいなおつね

生没年不詳。南北朝時代の武将。刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)、右馬権頭(うまのごんのかみ)、播磨守(はりまのかみ)。貞頼(さだより)の子。足利尊氏(あしかがたかうじ)に属し、1338年(延元3・暦応1)奥州より侵入した北畠顕家(きたばたけあきいえ)軍を大和(やまと)に破るなどの軍功をあげ、若狭(わかさ)守護、伊賀守護を経て44年(興国5・康永3)越中(えっちゅう)守護となった。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)には足利直義(ただよし)方となり、51年(正平6・観応2)北陸の大軍を率いて入京し直義方を勝利に導いた。ついで直義とともに北陸に逃れ、直義の没後も足利直冬(ただふゆ)党や南朝方と連携して幕府に抵抗し、再三京都に突入した。66年(正平21・貞治5)幕府に帰順し弟直信(なおのぶ)は越中守護となる。翌年以来ふたたび背き、能登(のと)をも侵したが、70年(建徳1・応安3)子直和(なおかず)は越中で討ち死にし、翌年直常兄弟は越中守護斯波義将(しばよしまさ)、能登守護吉見氏頼(よしみうじより)らに完敗、行方をくらました。

[小川 信]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桃井直常」の解説

桃井直常 もものい-ただつね

?-? 南北朝時代の武将。
足利氏の一族。北畠顕家(あきいえ)との戦いで功があり,若狭(わかさ),伊賀(いが)の守護をへて越中守護となる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利直義(ただよし)方の中心勢力。幕府に一時帰順するが,応安4=建徳2年(1371)越中で斯波義将(しば-よしまさ)に敗れ,以後の消息は不明。名は「なおつね」ともよむ。

桃井直常 もものい-なおつね

もものい-ただつね

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桃井直常」の意味・わかりやすい解説

桃井直常
もものいただつね

南北朝時代の武将。右馬権頭,播磨守。伊賀,若狭,越中守護。足利の支族で,貞頼の子。室町幕府の成立に尽力したが,観応の擾乱以後は足利直義に従って足利尊氏に対抗。 (→桃井氏 )

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世界大百科事典(旧版)内の桃井直常の言及

【越中国】より


[南北朝~室町時代]
 建武政権の下で,越中国司には中院定清が任じられたが,守護には吉見頼隆,ついで越中の豪族普門俊清がなった。その後これに替わって桃井直常が守護となったが,直常は1350年(正平5∥観応1)観応の擾乱(じようらん)で足利尊氏に反した足利直義にくみし,南朝方として反幕軍事行動をとったため,越中は反尊氏方の拠点となった。その間に井上暁悟(普門俊清と同一人物)が再び守護に任じられ,その後守護は細川頼和,斯波氏(高経か),桃井直信,斯波義将と交替した。…

【桃井氏】より

…足利氏庶流の中世武家。足利義兼の子義胤が上野国群馬郡桃井郷に住し,桃井と号したのに始まる。孫の代で2流に分かれ,南北朝期に至って活躍。胤氏の1流から出た尚義は1333年(元弘3),新田義貞に属して鎌倉を陥落させた。一方頼直の流では直常が出て,越中桃井氏の基礎を築いた。直常は観応の擾乱(じようらん)期の幕府政治に大きな影響力をもち,終始足利直義党の最右翼として活動した。直義没後は衰退の途をたどったが,弟直信が67‐68年(正平22∥貞治6‐正平23∥応安1)に越中守護となるなど,なお余勢を保った。…

※「桃井直常」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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