桜小路
さくらこうじ
東方は下荒町、西は日和山から高野浜。東西の通りと南の出町に通じる南北の小路を一部含む。酒田町組の西端に位置し、宮野浦村から酒田に入る浜街道の入口にあたる。川船の船頭、幕府米蔵で働く丁持や漁師の町であった。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)に片平町とみえ、道は長さ七三間、北側は海向寺境内、南側は屋敷一六軒。元禄一〇年(一六九七)の亀ヶ崎城下大絵図に東西の道は猟師町分として七軒、南北の道は八間町として長さ四三間・幅三間がみえ、このうちのちに桜小路分となる地域の家数五。
桜小路
さくらこうじ
[現在地名]長野市長野 桜枝町
善光寺町八町の一、善光寺本堂旧位置前(現仁王門北側)から西方に通ずる東西の町通り。裾花川流域の山中諸村から善光寺町への西の入口にあたる。応永七年(一四〇〇)の「大塔物語」に、「爰ニ桜小路ニ玉菊・花寿ト云ヘル遊女云々」とあるように遊女などがいて、一種の花町であった。天和二年(一六八二)の善光寺町市場之覚(善光寺町宿場市場書類本書之写)には、「一桜小路 但、町五分一程市立申候」とあるように、善光寺町端にあって、市立てのことはなく、山中麻・山中紙を取り扱う店が多かった。
桜小路
さくらこうじ
[現在地名]本荘市桜小路
本荘城から御倉小路へ抜ける御城前袋小路・横町・桜小路(二枚橋)を併せて桜小路という(本荘郷土史)。東を御蔵溝が流れ、南側突当りは三の丸。
城の最も近くに位置し、大身の武家屋敷町で、二枚橋際には作事役所が置かれていた。安政三年(一八五六)から戊辰戦争で焼失するまで、藩校修身館があった。
桜小路
さくらこうじ
[現在地名]相馬市中村 北町
桜馬場ともいう。東片小町の東に位置し、大手先東端から北町までの南北一八八間の片側町で、東は堤と堀を隔てて上町に接する。慶長一六年(一六一一)に相馬氏が中村城に居城を移してすぐ馬場をつくり、桜木数百株を植えたのが桜馬場の由来とされる。
桜小路
さくらこうじ
[現在地名]甲府市北口一丁目
城の北郭内にある武家地の一つ。橘小路の西に並行し、北は二ノ堀土手から南は山手役宅までの南北の小規模な小路で、西側に武家屋敷が並ぶ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 