デジタル大辞泉 「スター」の意味・読み・例文・類語
スター(star)
2 人気のある芸能人や運動選手。花形。また、ある分野で際立った人気者。
[類語](1)星・恒星・惑星・星座・綺羅星・星辰・星屑・星雲・星団・天の川・銀河・首星・流星・流れ星・彗星・箒星・一番星・一等星・新星・超新星・変光星・ブラックホール・連星・主星・伴星・遊星・小惑星・衛星・α星/(2)名優・千両役者・花形・立て役者・大立者・
翻訳|star
星のようにきらめく輝かしい存在という意味でのスターは,映画,スポーツその他各界の〈花形〉のことをいう。映画におけるスターとは,映画の都ハリウッドにその原形および典型が見られるように,本来の才能あるいは演技力にはかかわりなく,ただスクリーンに存在すること(screen presence)によって大衆の人気を確実に得ることのできる女優なり男優なりのことであり,映画の興行的成功を最高度に保証する,すなわち最高の〈興行価値box-office production value〉を誇る存在であり,しばしば映画そのものをしのぐ人気俳優のことである(スターの名まえだけが高くなって出演料のみ上がり,映画の興行成績が低下する場合もあり,そのようなスターはハリウッドでは〈映画興行のガンbox-office poison〉と呼ばれる)。それゆえに,スターは,まずシナリオがあって,一つの役を演ずるというのではなく,逆に,スターのために,スターに合わせて,映画が企画され,役が考え出され,シナリオが書かれ,映画がつくられることになる。
映画スターの歴史はアメリカ映画の歴史でもあるが,エドガール・モラン《スター》(1960)やアレクサンダー・ウォーカー《スターダム--ハリウッド現象》(1970)によれば,映画の歴史の最初の約15年間は俳優の名まえがタイトルに使われることもなく,ただ製作会社の名まえによって〈バイタグラフ・ガール〉とか〈バイオグラフ・ガール〉,役柄によって〈かわいいメリー〉とか〈銀行家〉,あるいは肉体的な特徴によって〈巻き毛の娘〉とか〈デブの大男〉などというぐあいに記憶され,よびならわされていた。会社が特定の俳優の名まえを明かさず〈無名〉のままにしておいたのは,人気と名まえが結びついて名実ともに〈人気俳優〉になれば当然のこととして高い出演料を要求されることをおそれたことが一方にあり,また他方では,演劇に比べて映画を蔑視して名まえが知られるのをきらう俳優がいたためであったといわれる。1909年,アメリカの映画産業が活況を呈してきて〈モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(活動写真特許会社)〉というトラストに対抗して〈インデペンデント・モーション・ピクチャー・カンパニー・オブ・アメリカ(IMP)〉を設立した独立製作者カール・レムリは,当時〈バイオグラフ・ガール〉とだけ知られていた人気女優フローレンス・ローレンス(1886-1938)を,バイオグラフの週給25ドルに比べて破格の1000ドルを支払い,映画に名まえを出すこと(screen credit)を約束して引き抜き,彼女を〈IMPガール〉として売りだすためにアメリカ映画史に残る伝説的な〈宣伝〉を行った。〈バイオグラフ・ガール〉のフローレンス・ローレンスがセント・ルイスの市街電車事故で死亡したというつくり話が報道関係者の間に流布したため,彼女の名まえと写真が新聞に一斉に発表され,とくに《セント・ルイス・ポスト・ディスパッチ》の日曜版は,〈バイオグラフ・ガール〉の死を悼む長い記事を載せた。約1週間後レムリは,業界紙《モーション・ピクチャー・ワールド》に半ページ広告をだして,〈バイオグラフ・ガール〉の死亡記事はトラストの陰謀による捏造(ねつぞう)であり,彼女は〈IMPガール〉として健在ですでに次回作が決定していると発表。まもなくセント・ルイスに姿をあらわしたフローレンス・ローレンスは文字どおり熱狂的な歓迎を受けた。こうして,名まえが大衆に知られた最初の〈スター〉が誕生したのであった。
1900年代の初めにフランス映画界の支配者となったシャルル・パテは,映画では俳優の頭から足まで全身がスクリーンに写るように撮影しなければならないと配下の監督たちに指示したと伝えられているが,アメリカのエドウィン・S.ポーター(1869-1941)やD.W.グリフィスの実験的なクローズアップの使用は,演劇の伝統に固執するパテの考えをくつがえし,俳優の魅力を強調してその人気をさらに高めた。
09年,バイタグラフ社の映画のスチール写真をいれてプロットやあらすじをよびものにした最初のファン雑誌《モーション・ピクチャー・ストーリーズ》が発刊されて,初めてメリー・ピックフォードの名まえが明かされた。続いて《フォトプレイ・マガジン》(1911発刊)その他のファン雑誌が登場してスターの略伝や日常生活にスペースをさきはじめ,14年には《ニューヨーク・ヘラルド》が日曜版にイラスト入りで映画に関するシリーズ記事を連載してスターの動向もとりあげ,スターに対する興味と関心をあおった。こうして〈アメリカの恋人〉メリー・ピックフォード,〈花のような乙女〉リリアン・ギッシュ,〈喜劇の天才〉チャップリン,〈アメリカの快男子〉ダグラス・フェアバンクスなどの伝説的なスターが生まれた。そして,やがて〈ハリウッドの活力源〉といわれた宣伝によって〈妖婦〉セダ・バラ,〈禁じられたエロティシズム〉ルドルフ・バレンティノ,〈火の玉〉ポーラ・ネグリ,〈女王〉グロリア・スワンソンといったスターがつくられた。スターは映画が〈企業〉になるとともに生まれ,アメリカばかりではなく,すでに第1次世界大戦前,チャップリンが師と仰いだフランスの喜劇王マックス・ランデル,ヨーロッパにおけるサイレント映画の伝説的なスーパースターであったデンマーク女優アスター・ニールセン(1883-1972)やイタリア女優リダ・ボレリ(1884-1959)やロシア人の俳優イワン・モジューヒン(1889-1939)らがいたが,一般観客つまり小市民層の生活感情の中に潜んでいるロマンティシズム,英雄崇拝,恵まれない物質生活によって抑圧された性的欲望を利用して,スターを商品化して〈スター・システム〉をつくりあげ,企業の要求を満たしたのはアメリカ映画すなわちハリウッドであった。
スター・システムは,映画の内容すなわち芸術的な価値を人気俳優の価値,いわゆるスター・バリューにおきかえるものであったが,1910年代のなかばにはこのシステムが映画界を支配し,第1次大戦後の約10年間に世界映画市場の90%を占めたといわれるアメリカ映画の世界制覇の基礎となり,名まえが世界中に身近な存在として知れわたったスターがハリウッドを代表した。心理学者たちは,スターは一般大衆の欲望や夢や空想の反映であると分析したが,20年には毎週,約3500万人のアメリカ人が特定のスターを見るために映画館へ足を運んだといわれ,20年代はまさにスター崇拝の一つの頂点であった。映画の〈興行価値〉は即スターであったから,バンク・オブ・アメリカは,チャップリンが主演するというだけで《キッド》(1921)の製作会社ファースト・ナショナルに25万ドルを融資したほどであった。20年代の終りから30年代の初めにかけてスター・システムは商業主義でつらぬかれた撮影所システムと密接に結びつき,各社はそれぞれ巧妙な宣伝によってスターをつくり,とくに黄金時代を迎えたMGMは〈空の星より多いスター〉をスローガンとして掲げ,同時にシンボルとしてのスターのイメージが損なわれるのを防ぐため,飲食物から服装,恋愛に至るまでスターの私生活を管理した。スターの契約書に〈道徳条項morality clause〉が付け加えられたことは,ハリウッドの伝説の一つになっている。
日本映画のスター・システムは初期の松竹蒲田映画とともに始まる。日本映画のスター第1号として知られる女優・栗島すみ子は,第1回主演作《虞美人草》(1921)以来すばらしい人気で,川田芳子,五月信子とともに初期蒲田の三大女優時代をつくった。この三大女優を一堂に集めた《母》(1924)が1924年大阪道頓堀に新築された当時東洋一の映画劇場〈松竹座〉で公開されたときに主演者たちが出席することになったが,そのとき,大阪駅に出迎えた人波は空前のことだといわれ,〈日本におけるスター・システム勃興期の記念すべき出来事〉になった(筈見恒夫《映画百年史》)。
第2次大戦後の1946年,アメリカ映画は史上最高といわれる興行成績をうたったが,3年後には急速に落ちこみ,1940年代の終りから50年代にかけて,商業映画製作の重要な要素であったスター・システムもゆらぎ始めた。映画を斜陽化させたテレビが,あこがれの象徴であり偶像であったスターを,習慣的視聴から生まれる親近感の中で日常的な存在にし,スターのイメージが変わり重要性も失われた。また,50年代には独立製作会社の活躍が目だち,各社がスターに高給を支払う余裕がなくなり,多くのスターが契約を解除された。60年代になってスターの時代は終わったといわれ,《メリー・ポピンズ》(1964)や《サウンド・オブ・ミュージック》(1965)の成功で,日常的,家庭的なイメージをもった,新しいタイプのスターの地位についたジュリー・アンドリュース主演の《スター!》(1968)の無残な失敗に象徴されるように,スターが映画を支える力を失う一方で,《卒業》(1968)や《2001年宇宙の旅》(1968)のようなスターなしで成功する新しい映画がつくられ,69年,カリフォルニアのバンク・オブ・アメリカの最高幹部は,スターはもはや映画製作になんの保証もあたえないと声明するに至った。
70年代になって,バーブラ・ストライサンド,ロバート・レッドフォードなど数少ないスターが興行成績を保証するといわれたが,《アメリカン・グラフィティ》(1973),《エクソシスト》(1973),《ジョーズ》(1975),《スター・ウォーズ》(1977)などはスターなしで記録的に成功し,ボストン・ファースト・ナショナル・バンクの副社長は,観客をよびよせるのはスターではないと断言した。しかし,それでもなお,ハリウッドの代表的なスターであったジョン・ウェインは,いまなお崇拝者をもっているといわれ,また1本の出演料200万ドルのチャールズ・ブロンソン,《スーパーマン》(1978)に10日間ゲスト出演して225万ドルを得たマーロン・ブランドのような〈スーパースター〉もいる。とはいえ,スターは大衆によってつくられるものであり,かつてサミュエル・ゴールドウィンは,〈スターはプロデューサーではなく神がつくるものであり,大衆は神のつくったものを認めるのである〉といったが,現在のスターは,華麗な生活の代償としてプライバシーと自由を犠牲にして商業主義に奉仕したかつてのスターと異なって,たとえばクリント・イーストウッドのように自分のプロダクションをつくり,あるいはプロデューサーを兼ね,さらには監督を兼ねるのが一つの風潮になっている。
日本ではすでに関東大震災直後に,剣劇スターの勃興による未曾有の俳優独立プロダクションの隆盛をみた時期がある。1927年から28年にかけて阪東妻三郎プロダクションを筆頭に,市川右太衛門プロダクション,嵐寛寿郎プロダクション,片岡千恵蔵プロダクション等々が林立した。しかし,資本と配給組織をもたないこれらのプロダクションの衰退は早く,また,スター・システムが強調された結果,監督はスターに隷属する形になって作品的にはほとんど見るべきものはなかったものの,いち早く映画の真の作者=監督の指導的優位を自覚し証明した千恵蔵プロダクションがもっとも永続し,稲垣浩,伊丹万作を世に出し,またその自覚によって更生した寛寿郎プロダクション(第二次寛プロ)からは山中貞雄が生まれたのであった。
執筆者:柏倉 昌美
高速の中性子や陽子などの粒子が原子核に衝突すると,核内で核子との衝突を繰り返し,原子核のエネルギーが上昇して,陽子,中性子,重陽子,α粒子などの核破片を四方に放出する。これは核破壊現象であるが,原子核乾板で見ると核破片の飛跡が星形に似ているのでスターと呼んでいる。
執筆者:三宅 三郎
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…惑星の対語。英語ではfixed starであるが,単にstarということが多い。物理的には太陽のようにみずから発光しているか,あるいは過去にそういう状態にあった単体の天体をいう。…
…星のようにきらめく輝かしい存在という意味でのスターは,映画,スポーツその他各界の〈花形〉のことをいう。映画におけるスターとは,映画の都ハリウッドにその原形および典型が見られるように,本来の才能あるいは演技力にはかかわりなく,ただスクリーンに存在すること(screen presence)によって大衆の人気を確実に得ることのできる女優なり男優なりのことであり,映画の興行的成功を最高度に保証する,すなわち最高の〈興行価値box‐office production value〉を誇る存在であり,しばしば映画そのものをしのぐ人気俳優のことである(スターの名まえだけが高くなって出演料のみ上がり,映画の興行成績が低下する場合もあり,そのようなスターはハリウッドでは〈映画興行のガンbox‐office poison〉と呼ばれる)。…
…そこでは,あらゆる人間的事象がその支配星によって決まると考えられるから,人間の運命とはすなわち星のめぐりにほかならない。欧米各国語には,英語に限っても,例えば,〈be born under a lucky star(幸運な星の下に生まれる)〉〈thank one’s star(星まわりに感謝する)〉〈One’s star is in the ascendant(運が向いてくる)〉など,運命と星を同一視した多くの言い回しがある。また神の意志の表明としての星の出現は当然ながら重大事の予兆ともなる。…
…クローズアップやモンタージュなどさまざまな映画的手法を開発し,それらを駆使して巧みに長編の物語を語ることをはじめ,それ以後のすべての映画の基礎を築いたのは,〈アメリカ映画の父〉D.W.グリフィスであった。また,スターシステムや撮影所のシステムをはじめ,映画の製作,配給,興行のしくみなど,映画のあらゆる側面を通じて,〈アメリカ映画〉から生まれ発展し,各国の映画にもたらされたものは数多い。1911年,ハリウッドに最初の撮影所が建設されて以来,アメリカ映画史はハリウッドを中心に形成されることになる。…
…89年,イギリスの写真家W.フリーズ・グリーンが,バイファンタスコープbiphantascopeと名づけた最初の映画用カメラ(キネマトグラフィーkinematography)を考案(1952年にロバート・ドーナット主演による彼の伝記映画《魔法の箱》が作られている)。またフランスの化学および物理学者L.ル・プランスが,パーフォレーション(送り穴)のあいた映画用フィルムとフィルムを送るためのスプロケットとともに,のちにドイツのO.メスターが完成する十字車を使う映写装置を考案(さらに彼はリュミエールのシネマトグラフより5年早い1890年に,映写を目的としたフィルム撮影を行ったが,その直後に走る列車の中から忽然(こつぜん)と姿を消し,犯罪捜査史上のなぞの一つとなった)。アメリカでエジソンが35ミリフィルムを開発したのも89年であった。…
…それを最初に発見したのは,トマス・エジソンのライバルであったシカゴの映画製作者ウィリアム・N.シーリグWilliam N.Selig(1864‐1948)で,《モンテ・クリスト伯》(1908)の屋内場面をシカゴで撮影したのちロケーションのためカリフォルニアへでかけ,つづいて《サルタンの力のなかで》(1908)をすべて西部で撮影したのが,そもそものハリウッドの発見であった。 映画の都ハリウッドの成立と建設については,映画史家の間にもいろいろな説があるが,1909年にエジソン,バイオグラフ,バイタグラフ,カレムなど9社がカメラ,映写機,フィルムなどについて16の特許を保持するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニーと称するトラストを結成したため,トラストの監視からのがれようとした独立製作者たちがニューヨークから遠く離れたカリフォルニアで製作を始め,ネスター社が11年にハリウッド最初の撮影所をつくったのにつづいてトラスト加盟各社も相次いでハリウッドに撮影所をつくり,こうしてアメリカの映画製作はわずか数年のうちにロサンゼルスとその近郊に集中し,反トラスト派の中心人物カール・レムリのユニバーサル社が,サン・フェルナンド・バレーにユニバーサル・シティと呼ばれる映画都市を建設した15年ころに,ほぼハリウッド建設は完了したというのがもっとも一般的な説である。 映画製作の中心がこのように東部から西部へ移ったことについては,トラストをめぐる抗争,西部劇の流行,撮影に適した自然的条件などが原因としてあげられてきたが,《映画がつくったアメリカ》(1975)の著者ロバート・スクラーは,当時のロサンゼルスが組合のない都市として知られ,労働力はつねに過剰ぎみで,賃金水準もときによってはニューヨークの1/2くらいであったことがその重要な要素となったと指摘している。…
※「スター」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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