森村 市左衛門
モリムラ イチザエモン
明治・大正期の実業家,男爵 森村組創業者;日本陶器創立者。
- 生年
- 天保10年10月28日(1839年)
- 没年
- 大正8(1919)年9月11日
- 出生地
- 江戸・京橋白魚河岸
- 別名
- 幼名=市太郎
- 経歴
- 生家は代々江戸・京橋白魚河岸に住む土佐藩の用達商。13歳で呉服商店員となるが、安政元年の江戸大火、翌年の安政大地震で2度家を失ない、夜店で煙草入れを商う。慶応年間幕府雇人のフランス人について武器の製造法を学び、戊辰戦争の際は板垣退助の命により土佐藩の兵器・食糧の用達を引き受ける。また横浜で生糸、羽二重などを外人商社と取引し、巨利を得た。明治9年弟の森村豊とともに貿易会社・森村組を設立、工芸・雑貨の対米貿易に従事。日露戦争後、取扱い商品を拡大し、本格的な商社へと成長させた。特に主力商品であった陶磁器の製造を直接手がけ、37年愛知県鷹羽村則武(現・名古屋市)に日本陶磁会社(のちのノリタケカンパニー)を設立。大正2年には白色硬質陶磁器のディナーセットを完成させ、“ノリタケチャイナ”のブランド名で世界に知れ渡った。その後、森村銀行頭取、日本銀行監事、甲武鉄道相談役などを歴任した。また、社会文化事業にも熱心で、34年に(財)森村豊明会を設立し、北里研究所、日本女子大学、森村学園、修養団など多くの団体に物心両面の貢献をした。大正4年男爵。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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森村市左衛門
もりむらいちざえもん
[生]天保10(1839).10.27. 江戸
[没]1919.9.11. 東京
明治の実業家。生家は武具商。母の死後 13歳で奉公に出た。安政2 (1855) 年の震災で丸裸となり大道商人になったが,のち若干の資金を得て御用商人となり,戊辰戦争に際しては板垣退助の命で土佐藩の武器,糧食の調達に従事した。また貿易に強い関心をもち,横浜で外国商館を相手に生糸の取引などで多大の利益を得た。 1875年弟豊の渡米に際して森村組を創立。アメリカに渡った弟に日本品を送り商売に成功。また森村銀行を設立したほか,80年日本陶器設立,82年日本銀行設立とともに監事。 1904年には森村同族会社を創立した。また教育事業にも熱心で,女学校を創立し,北里研究所創立にも協力。そのほか早稲田大学,慶應義塾大学や修養園などにも私財を寄付するなど,社会奉仕活動も盛んに行なった。晩年は一切の事業から退き,敬虔なクリスチャンとして過した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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森村市左衛門
もりむらいちざえもん
(1839―1919)
実業家。武具用達商市左衛門の長男として江戸・京橋に生まれる。長じて家業を継承し用達商となるが、開港を機に横浜に進出し、舶来雑貨商をも兼営する。戊辰(ぼしん)戦争の際に兵器売買で資産をつくり、明治初年、各種事業に着手するが、失敗の連続で破産の憂き目をみた。その後、武具商を廃して貿易業に乗り出し、1876年(明治9)異母弟豊と森村組を興し対米直接貿易を開始した。貿易業で成功したのち、森村銀行を開いたほか、中央財界の有力人物の一人となり各種事業に関連した。晩年は事業いっさいを二男開作(当主森村勇)にゆだね、熱心なクリスチャンとして社会奉仕に献身した。
[浅野俊光]
『若宮卯之助著『森村翁言行録』(1929・大倉書店)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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森村市左衛門 もりむら-いちざえもん
1839-1919 明治時代の実業家。
天保(てんぽう)10年10月28日生まれ。家は江戸京橋の高知藩御用達商。明治9年弟の豊,義弟大倉孫兵衛と貿易商社森村組をおこし,アメリカに雑貨を輸出。のち日本陶器(現ノリタケ),森村銀行の経営ほか諸事業に関係した。キリスト教に入信し,社会事業家,教育家としても活躍。大正8年9月11日死去。81歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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