日本歴史地名大系 「椿海」の解説
椿海
つぱきのうみ
- 千葉県:総論
- 椿海
千葉県の東部にあった東西約一二キロ・南北約六キロの楕円形の淡水湖。椿湖とも。九十九里浜の海退によって形成されたと思われ、近世初期まで下総国の
当湖は寛文一〇年から干拓され、椿新田とよばれ、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県の東部にあった東西約一二キロ・南北約六キロの楕円形の淡水湖。椿湖とも。九十九里浜の海退によって形成されたと思われ、近世初期まで下総国の
当湖は寛文一〇年から干拓され、椿新田とよばれ、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県北東部、九十九里平野北端にあった潟湖(せきこ)。江戸初期、現在の匝瑳(そうさ)市、旭(あさひ)市にまたがる地域は、椿海とよばれた潟湖の湾入で太平洋と続いていた。この地が町人請負新田(うけおいしんでん)として開発され、干潟八万石とよぶ水田地帯が誕生した。江戸の町人杉山三右衛門(すぎやまさんえもん)、白井治郎右衛門(しらいじろうえもん)の干拓申請は幕府によって相次いで不許可となったが、白井は大工頭辻内刑部左衛門(つじうちぎょうぶざえもん)や黄檗(おうばく)僧鉄牛(てつぎゅう)の進言によって1668年(寛文8)干拓の許可を得た。干拓は白井・辻内両人によって進められ、その後資金難にも直面したが、幕府の援助もあって1670年に湖水を太平洋へ流す新川が完成し、以後3400町歩に及ぶ耕地が開かれ、村高2万4000石、18か村の新田村が成立した。用水は溜池(ためいけ)に依存したが不足して干害に悩まされ、また排水不良もあって水害を引き起こしてきたが、1951年(昭和26)に利根(とね)川から引水した大利根用水が完成して水田は安定し、早場米(はやばまい)地帯をなすに至った。
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 内陸部は7~8列の砂堆列と湿地列からなる幅6~10kmの隆起海岸平野で,九十九里平野といわれる。北部には近世初期に椿海を干拓した干潟八万石があり,南部は1967年に完工した国営両総用水によって土地改良が進んでいる(椿海干拓)。椿海は海上・香取・匝瑳(そうさ)3郡にわたる入海で,町人請負により1670年(寛文10)に干拓に着手,翌71年に湖水を干上げ,72年から稲作を始めた。…
…下総国香取,海上,匝瑳(そうさ)3郡(現在の千葉県旭市,八日市場市,香取郡干潟町,東庄町,海上郡海上町)にわたる湖,椿海の水を九十九里浜に排出した干拓事業。計画は元和年中(1615‐24)よりあったが,寛文年中(1661‐73)に江戸町人白井次郎右衛門が江戸幕府に出願,代官伊奈氏の検分を受けたが不許可となった。…
※「椿海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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