改訂新版 世界大百科事典 「楔形文字法」の意味・わかりやすい解説
楔形文字法 (くさびがたもじほう)
楔形文字法とは楔形文字を用いて記録された古代メソポタミア,イラン,アナトリアの法律を指すきわめて漠然とした名称である。一般にこれらの地方の支配者は,神の代理人として人民の幸福を実現する義務を意識していたから,その碑文や年名にはしばしば〈正義を確立し〉,〈孤児や寡婦を有力者の恣意から保護した〉旨の叙述が見られる。法の制定もこの理念の具体化のひとつとして理解されていた。たとえばハンムラピはその法典(ハンムラピ法典)の後書きで次のように言う。〈係争に巻き込まれ抑圧されている者は私の彫像《正義の王》の前に来て,私の碑文を読み,貴い言葉を聴くように。私の石碑は彼に係争事を明らかにし,彼は正義の判決を見いだして心をほっとさせるであろう〉。楔形文字法の研究史はすでに100年を超え,V.シェール,B.フロズニー,J.コーラー,M.サン・ニコロ,A.ウングナド,F.R.クラウスその他によってウルナンム法典,リピトイシュタル法典,エシュヌンナ法典,ハンムラピ法典,古・中・新アッシリア法典,ヒッタイト法典,新バビロニア法典などが公刊され,詳細に研究されてきている。往時の法については,これらの法典のほかにウルカギナ王の改革碑文(前24世紀後半)や古バビロニア時代の王の勅令,カッシート時代(前15世紀)以降の土地境界石(クドゥルkudurru),書記の学校用の教材などからもさまざまな知識が得られるが,現存する最古の法典は前21世紀前半のウルナンム法典である。その内容・形式が整っていることは,それ以前から法典編纂の伝統があったことを推測させる。
法典は,ハンムラピ法典のごとくおそらく石碑に刻まれて重要な諸都市に建てられていたであろうが,実用のためには数多くの粘土板文書の写本が国内にあまねく流布していた。法典は一般に序文,本文,後書きの3部から構成された。序文では神々による立法者の召命(したがって,法典は間接的には神々の意志の具現となる),立法者の高邁な資質や治績,民をいつくしむその人間性・倫理性の高さが強調されて,立法者の政治理念・原則が明示される。条文を叙述した本文に続く後書きでは,彼が神からゆだねられた任務,すなわち敵を打倒し国土に平和を確立して弱者を保護し,民に安寧をもたらす責任を忠実に成し遂げたことが誇らかに唱えられ,法律を遵守する子孫への祝福とそれを改竄(かいざん)ないし破壊する者への神罰が述べられて結ばれている。楔形文字法の個々の法律文の形態的特徴は〈もしも……であるならば〉(シュメール語ではtukumbi,アッカド語ではšummaで表現)で始まる文章が特定の具体的状況を仮定し,それに続く帰結の文がその犯罪などに対する処罰ないし処置を叙述することである。古代人自身は法律に番号を付していないが,現代の研究者は単語〈もしも〉に着目して条文を分けている。しかし,それらの諸条文にこめられた法律がどのような基準によって配列されていたかはつまびらかではない。個々の法律条文で仮定される状況は,どの法典においても相当に具体的に描写されていることが多い。その点,個別的事情を抽象的に一般化する現代の法と大いに異なっている。したがって,楔形文字法では一法典が当時の社会に起こるすべての問題をもれなくカバーできるわけがなかった。このことは次の事がらからもうなずけよう。(1)多数の裁判記録のどれひとつとして,判決は依拠した法律に言及していないこと,(2)法律内容と酷似ないし類似する契約書や判決が存在する反面で,法典中には見いだせない内容のものも少なくないこと,(3)たとえば債務証書に記されている利率は法典に定められているそれよりも幅のあること。これらは古代の諸法典の実用性や基本的性格を次のように考えさせる。すなわち,当時の法は強制力・拘束力をもたないものであった(この点において現代の法との著しい相違を認めることができる)。そして,為政者は自己の権力と国力の増進のために必要と見なした事がらを取捨選択して法典を編み,現実の諸問題の解決をはかる際にそれを参考にしたのである。それゆえ,これらの法典は当時の社会に通用した法の全体像を明示しているものではないし,現実の慣習法ともかけ離れた面を含むことがあったと見なくてはならない。しかしまた,法典はその制定者の理念に基づく理論上の産物にすぎないと見るのは極論であろう。楔形文字法は,一般に〈法典〉と呼ばれているが,現実にはひとつの法理念にのっとって組織的・体系的に法規を網羅的に配列している近代の法典とはおのずからその性格を異にしている。したがって〈法典〉よりは〈法規集〉の方がよりよく実体を表す呼び方であろう。
これまでに発見された限りでは,法典の編纂はとくに古バビロニア時代(前2千年紀前半)に集中している。その直前のウル第3王朝時代にその創立者ウルナンムの編んだ法典は,それぞれ伝統の異なる諸地域を含む広大な領域を統一的に統治する意志の反映であろうが,この頃はメソポタミアをアムル人(アモリ人(びと))の大規模な移動が席巻し,社会の構造に大きな変化をもたらしつつあった。アムル人が政治的支配権を握った古バビロニア時代に法典編纂が相次いだのは,おそらく新しい社会情勢に見合って新たな社会的慣行を確立する必要に迫られたからであろう。ハンムラピ法典は〈目には目を,歯には歯を〉の同態復讐法で名高いが(これとても実際にはその適用に際して加害者と被害者の身分差が考慮されていた),それよりも先のウルナンム法典では身体傷害罪はつねに罰金であがなわれることが原則であった。この相違もそれぞれの社会のあり方の反映であり,単純にハンムラピ時代の社会の復古性を想定してすむ問題ではない。法典の理解にはこのような特徴をそれぞれの社会の状況の中に位置づけて考える必要がある。
執筆者:五味 亨
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報