改訂新版 世界大百科事典 「楠木氏」の意味・わかりやすい解説
楠木氏 (くすのきうじ)
橘氏を称するが出自は不明。正成以後,河内の金剛山の麓に本拠を持ち,和泉にまで一族が広がっているが,楠木という地名は確認されていない。1190年(建久1)源頼朝入洛のさいの随兵に楠木四郎がおり(《吾妻鏡》),この楠木氏は東国御家人であろうが,正成流との関係は未詳である。《楠氏系図》で正成の父とされる橘正遠の女が伊賀国御家人服部氏の妻となり,観阿弥を生んだとする〈観世系図〉もあるが,ほかにこれを証明する史料がない。また播磨国大部荘の1295年(永仁3)の文書にみえる河内楠入道も楠木氏と断定しがたい。《高野春秋編年輯録》に1322年(元亨2)北条高時の命で紀伊国保田荘司を討った正成が阿弖河(あてがわ)荘を与えられたとあり,正成がこれらの荘の地頭湯浅氏と対立していたことは事実であるが,この記事も確証はない。楠木氏は御家人である蓋然性がかなり高く,東国御家人であっても中程度以下であり,商工業とかかわりの深い西国御家人的な性格を強く持っている。正成の本拠に近い金剛山に蔵人所に属する金剛砂商人(金剛砂御薗)がおり,あるいはそれと関係があるかもしれない。結局,楠木氏の確実な史料は正成以後のもので,正成が後醍醐天皇に結びついてから,その子正行,正儀まで南朝方の有力な武将であった。一族に和田,神宮寺,橋本ら諸氏があり,所領は河内,和泉に分布し,建武新政期に正成は恩賞として常陸国久慈西郡瓜連,土佐国安芸荘を得たことがある。南北朝合一後,楠木氏は時代の表面からほとんど消え,後南朝の動きに関連してときに姿を現す程度だったが,正儀の子孫大饗正虎(おおあえまさとら)が1536年(天文5)将軍足利義輝に仕え,楠長諳(ちようあん)と号して織田信長,豊臣秀吉の右筆となり,楠木氏はその立場を多少回復した。
執筆者:網野 善彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報