改訂新版 世界大百科事典 「ワシントン体制」の意味・わかりやすい解説
ワシントン体制 (ワシントンたいせい)
第1次世界大戦後,西方におけるベルサイユ体制と対応し,東アジア・太平洋地域に樹立された国際秩序。ワシントン会議(1921年11月~22年2月)で成立した諸条約・決議を基礎としたのでこの名がある。
背景
第1次大戦は東アジア国際関係に大きな変化をもたらし,とくに日本の大陸進出は著しかった。戦後,日本がこの地歩を維持しようとする一方で,ヨーロッパ列強は勢力回復をめざし,戦勝国の一員となった中国は民族自決主義の台頭に力づけられて,大戦中日本に対して失った権益を回復しようとし,またアメリカは門戸開放政策を中心とする新秩序を,東アジアに樹立しようとしていた。以上の対立と並行して,列国とくに日米間には大戦末期以来海軍軍拡競争が進行中であり,各国の戦後復興にとって大きな負担となっていた。ここにW. G.ハーディング・アメリカ大統領は,軍備制限と東アジア・太平洋問題のための国際会議を提唱し,日本,アメリカ,イギリス,フランス,イタリア,ベルギー,オランダ,ポルトガル,中国の9ヵ国が参加することとなった。アメリカは,日本の中国進出の一支柱であった日英同盟が1921年に満期となることに着目し,これを終了させて新たな列国関係をつくり出すことを意図して,会議を提唱したのであった。
日本の対応
以上の背景から,日本では会議が日本封じ込めの性格をもつことをおそれる者が少なくなかった。しかし同盟国イギリスがかつての力を失って対米傾斜を強め,協約国ロシアをロシア革命で失っていた日本にとって,対米協調以外に外交的孤立を避ける道はなかった。しかも日本経済にとってアメリカとの貿易・資本関係は不可欠であった。ここに戦前からの対米協調論者であった原敬首相は,戦後の反軍国主義世論を背景に,可能な限り対米協調を貫く方針を樹立した。海軍大臣加藤友三郎,貴族院議長徳川家達,駐米大使幣原喜重郎の全権も,この方針で選ばれたものであった。原は会議直前に暗殺されたが,原の方針は続く高橋是清内閣にも引き継がれた。
会議の成果
軍備問題では,会議議長C.E.ヒューズ・アメリカ国務長官の提案を基礎に,主力艦について10年間建造を中止し,既存艦の一部を廃棄し,保有総トン数の上限をアメリカとイギリス52万5000トン(5),日本31万5000トン(3),フランスとイタリア17万5000トン(1.67)に定めることを骨子とする海軍軍備制限五ヵ国条約が結ばれた。日本海軍の中には日米戦に備えて対米7割が不可欠であるとの意見が強かったが,加藤全権は日本の国力からみて対米戦は不可能と考え,これを抑えた。もっとも条約中には西太平洋での海軍基地増強禁止の規定があり,補助艦数制限の欠如とあいまって同地域での日本海軍の優位を高めた面もあり,条約は必ずしも日本にとって不利なものではなかった。
東アジア・太平洋問題については,太平洋に関する四ヵ国条約と中国に関する九ヵ国条約がおもな成果であった。前者によって日英同盟の終了,日米英仏協調体制の樹立が約され,また後者によって,軍事力を背景とする〈旧外交〉から,門戸開放政策を中心とする平和的経済主義的〈新外交〉への転換が約された。これに対応して日本は,山東権益を中国に返還し,満蒙借款における優先権等の放棄・二十一ヵ条要求中留保項目の放棄・シベリアからの撤兵を声明し,またアメリカが中国における日本の特殊地位を承認した石井=ランシング協定を廃棄することとした。しかしここでも,日本が最重視した満蒙権益の主要部分については暗黙の支持を与えるなど,アメリカは予想外に妥協的であった。つまりアメリカは対日抑制だけではなく,日本を含む列国協調体制の樹立を重視していたのであり,アメリカのこの態度と,日本における対米協調・平和的経済主義的外交論者の政治指導とが,ワシントン体制を可能としたのであった。
崩壊
ワシントン体制は確かに東アジアと太平洋に新時代を画した。しかしそれは,在華外国権益の存在を前提とし,また中国と深い関係をもつソ連の参加を排除してつくられたものであった。つまり中国ナショナリズムもソ連も弱体であることが,その成立条件であった。しかし1920年代末には,中国国民党は中国統一を完成して国権回収を主張し,またソ連は政治的軍事的に無視しえぬ力となっていた。満蒙を対ソ国防上の〈生命線〉とみていた日本陸軍は,ここに,対米英協調から離脱してでも満蒙権益を擁護・強化すべきだとの主張を打ち出す。海軍においても,軍備制限条約以来補助艦建造に力を入れてきたことから,1930年ロンドン軍縮会議の補助艦制限に大きな不満をもち(統帥権干犯問題),ワシントン体制からの離脱を主張する勢力が力を増した。こうした背景に,日本は31年満州事変を引き起こし,さらに満州国建国・承認(1932),国際連盟脱退(1933),ワシントン海軍軍備制限条約廃棄通告(1934)によって,ワシントン体制を崩壊させたのである。
執筆者:北岡 伸一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報