唐楽,三韓(高麗,百済,新羅)楽を調習する所。〈がくそ〉ともいう。その名称は《正倉院文書》の764年(天平宝字8)の文書などに見えるが,法会のときの楽人の詰所を指す語らしい。しかし904年(延喜4)を初見とする醍醐朝のものは,雅楽寮楽人と区別して楽所楽人が見えるので,すでに常設のものであったことが知られる。ただこれも醍醐天皇が没するとともに廃されたらしく,村上天皇の948年(天暦2)に再置され,場所も内裏の桂芳坊があてられ,以後,明治維新に及んだ。職員には別当,預などがあってこれを統轄した。別当には蔵人頭が任命される四位別当と,五位,六位の蔵人が任ぜられる五位(六位)別当の両者があった。楽人は《楽所補任》2巻によって,1110-1262年(天永1-弘長2)の任免が知られるが,それによれば,左右の近衛・兵衛・衛門のいわゆる六衛府の官人を中心に,興福寺,東大寺,石清水八幡宮などの寺社方楽人も任ぜられている。六衛府官人の奏楽は,嵯峨朝の814年(弘仁5)以後,天皇を囲む私的な宴会の場の余興として行われることが多くなり,しだいに雅楽との関係を深め,ついには雅楽を行うものは,衛府の官人に任ぜられるに至り,それが楽所楽人の主流を占め,令制雅楽寮衰退の原因となったのである。
→三方楽所(さんぽうがくそ)
執筆者:今江 広道
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宮廷の儀礼音楽をつかさどる機関。「がくしょ」ともいう。元来、宮中の桂芳(けいほう)坊の一画を利用して雅楽寮の楽人(がくにん)を控えさせる詰所であったが、948年(天暦2)正式に楽所と命名され、鳥羽(とば)天皇(在位1107~23)のころ確立された。これにより雅楽をつかさどる機関は実質的に雅楽寮から楽所に引き継がれ、雅楽はしだいに国家の荘厳(しょうごん)から宮廷の娯楽としての性格を濃くしていく。蔵人頭(くろうどのとう)や別当である「別当」、五、六位の蔵人である「預(あずかり)」と多くの専属の楽人からなり、これらの成員は毎年「楽所補任(がくそぶにん)」に登録された。応仁(おうにん)の乱(1467~77)で宮中の楽人は離散して楽所は衰滅した。
[橋本曜子]
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…なお雅楽大属尾張浄足(平安初期の人か)によれば,日本在来の歌舞には,宮廷に伝来した五節舞などのほか,久米舞(大伴・佐伯両氏),楯臥舞(土師・文両氏)など,氏族の伝承したもの,筑紫諸県舞のごとく地方に伝来したものがあり,外来音楽にも,唐楽などのほかに度羅楽もあったという。しかし師・生ともに時代が下るにつれて縮減の傾向にあり,そのうえ,日本固有の楽は大歌所において,唐楽以下の外来の楽は楽所において,また女楽は内教坊において教習されるようになり,雅楽寮はその実体を失った。雅楽【今江 広道】。…
…その名称は《正倉院文書》の764年(天平宝字8)の文書などに見えるが,法会のときの楽人の詰所を指す語らしい。しかし904年(延喜4)を初見とする醍醐朝のものは,雅楽寮楽人と区別して楽所楽人が見えるので,すでに常設のものであったことが知られる。ただこれも醍醐天皇が没するとともに廃されたらしく,村上天皇の948年(天暦2)に再置され,場所も内裏の桂芳坊があてられ,以後,明治維新に及んだ。…
…祖先は高句麗からの渡来人。《楽所系図》によれば大唐,高麗,新羅,百済などの舞楽師であり,大宰府庁舞師であった狛好行が祖。その後葛古,衆古を経て,冷泉天皇のとき衆行が勅によってはじめて興福寺雑掌となった。…
…雅楽用語。楽所(がくしよ∥がくそ)は宮中における雅楽演奏家詰所のような意図で948年(天暦2)に設けられたが,やがて,従来は楽舞を管轄していた雅楽寮に代わる機関として公式に機能するようになった。応仁の乱(1467‐77)等で宮廷の雅楽が維持困難になり,16世紀後半離散した旧来の宮廷所属楽人(京都方)を補う形で,寺社の雅楽に従事していた大坂四天王寺(天王寺方)と奈良興福寺(南都方)の楽人若干名が招集された。…
※「楽所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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