横野村(読み)よこのむら

日本歴史地名大系 「横野村」の解説

横野村
よこのむら

[現在地名]秦野市横野

秦野盆地の北西部、丹沢たんざわ山中の烏尾からすお山の南西に延びる尾根の南にある山付の村。北と東は菩提ぼだい村、南と西は戸川とかわ村に接する。村の中央を北西から南東に十日市場とおかいちば道が通る。小田原衆所領役帳に大藤新兵衛「八貫文 中郡波多野横野」とある。

近世は初め幕府直轄領、慶長一四年(一六〇九)一部が旗本小栗領となり、寛永元年(一六二四)残りが旗本戸田領となる。元文五年(一七四〇)幕府直轄領に復し、天保一三年(一八四二)以降小田原藩領。元禄一一年(一六九八)一一月の支配替の地書上(秦野市史二)によると、二五石の地と家一二軒が六浦藩領菩提村へ編入。この地は貞享二年(一六八五)九月の寺山てらやま村の新運上場等の取計いについての菩提村訴状(県史六)に「よちかいと村」とみえる。


横野村
よこのむら

[現在地名]稲沢市横野町

東は清水しみず村・西島にしじま村に接し、村の西境を一宮井が流れ、これに沿って巡見街道が通り、村内かみきり・下ノ切に分れていた(天保村絵図、徇行記)

嘉禎元年(一二三五)の真清田社領注文(久我文書)に「横野五丁五反三百歩」とみえ、応安二年(一三六九)の公役納法下地等注文(妙興寺文書)に「一所七反 横野出口 三百五十文 円光寺分」とみえる。天正三年(一五七五)に織田信長は道根どうね横野よこの堤修築を命じた(氷室家文書)。道根・横野堤は萩原古川はぎわらふるかわ堤で、旧木曾川筋で(現日光川)、江戸期は隣村西島の西境を流れていた。天保村絵図に「堂禰古川子新田」と河川跡を示しており、天正(一五七三―九二)頃の萩原古川と推定される。


横野村
よこのむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 横野

尾八重おはえ村の西、松木まつぎ川が耳川に合流する北岸の山腹に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、尾八重組に属する。村内には小村として久保くぼ村・栗林くりばやし村があった(延享三年「村覚」那須家文書)。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として横野とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑三反余(高三斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)


横野村
よこのむら

[現在地名]婦中町横野

神通川中流左岸に隣接し、すぐ西をうしくび用水が流れる。北は新屋あらや村、南は成子なりこ村。新屋村の枝村で、親村である新屋村からみて横に広がる原野であったところから名付けられたと考えられる(婦負郡志)。元禄一一年(一六九八)の古田新田高村付改帳(前田家文書)では高五一石余。享保六年(一七二一)の高四一石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高四四石余・定免三ツ六歩、新田高三三石余・平均免一ツ二歩八厘、銀納畑八六〇歩・代銀八匁六分(高物成品々手鏡)。享和年間(一八〇一―〇四)の古高四五石余・免三ツ六歩、新田高二六石余・免一ツ三歩、銀納畑は寛政二年と同じだが、明和八年(一七七一)と寛政二年の二回にわたり七石余の永引がある(「富山藩高物成帳」斎藤家文書)


横野村
よこのむら

[現在地名]矢部町川野かわの

北は河内かわうち村・男成おとこなり村に接し、南は緑川を挟んですげ村に対する。東部を流れる大矢おおや川には矢部四十八滝の一つ横野滝がある。応仁(一四六七―六九)頃とされる男成宮社頭注文(男成文書)に「よこの」とあり、「ふゆ(三)升、なつ(三)升、こい物を、ふゆあわの米二升、白まい一升、なつ三升」を祭礼に際して供している。また近世小村となった「内新藤」も同文書にみえ、「あつき五升、なつこむき五升」を、さらに天文一二年(一五四三)には「うちのしんとうより、むきさんしう、ふとうせんちやもく百」(「土貢済物注文写」同文書)を納めている。


横野村
よこのむら

[現在地名]飯南町横野

深野ふかの村の西、櫛田くしだ川の左岸にある。櫛田川の流れに沿って通る和歌山街道と一志郡から櫃坂ひつさか峠を越えて南下する初瀬(伊勢)本街道が当村で交差する。「五鈴遺響」に「街道ニ沿ヒテ長ク横タハルユエに名ツク」とある。両街道の分岐点でもあり、追分おいわけと称される。

文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「横野村」と記されている。寛永一一年(一六三四)に新田の、宝永元年(一七〇四)に新田畑の検地が行われた(検地帳はともに徳川林政史蔵)


横野村
よこのむら

[現在地名]下関市大字横野

現下関市の西部にあたり、東は安岡やすおか、北は福江ふくえの各村と接し、西・南はひびき灘に面する海岸の小村。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳に「横野村」とあり、安岡村と合石で記載される(→安岡村。「地下上申」には福江村に併記して報告されている。総石高二九七石余、うち田方一二一石余、畠方一七五石余。総家数四七軒、総人数三七七人を数える。


横野村
よこのむら

[現在地名]御船町滝尾たきお

東は梅木うめぎ村、北東は河内田かわうちだ村に接し、御船川に沿って集落が点在する。横埜とも書く。慶長国絵図に村名がみえる。木倉手永に属し、「国誌」は小村として田迎たむかい村・玉虫たまむし村・明王堂村を記す。明治初年の木倉手永手鑑によれば高五〇九石八斗余、田畝二四町八反余・畑畝一五町四反三畝余、竈数五八・人数二四四、牛馬六七。


横野村
よこのむら

[現在地名]伊万里市黒川町くろがわちよう横野

標高三〇〇メートル台の玄武岩からなる高原で、伊万里湾に注ぐはい川の水源地。慶長絵図に「横野村 黒川ノ内」とある。


横野村
よこのむら

[現在地名]唐津市横野

東松浦半島上場うわば台地の丘陵玄界灘に落ち込む位置にある。波濤をまともに受ける自然条件の悪い村落で、耕地も乏しい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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