新屋村(読み)あらやむら

日本歴史地名大系 「新屋村」の解説

新屋村
あらやむら

[現在地名]秋田市新屋栗田あらやくりた町・同もと町・同大川おおかわ町・同おもて町・同おうぎ町・同比内ひない町・同日吉ひよし町・同鳥木とりき町・同ゆたか町・同船場ふなば町・同勝平かつひら町・同割山わりやま町・同松美まつみ町・同寿ことぶき町・同南浜みなみはま町・同沖田おきた町・同高美たかみ町・同渋谷しぶや町・同田尻沢東たじりざわひがし町・同田尻沢中たじりざわなか町・同田尻沢西たじりざわにし町・新屋町

秋田平野の海岸部中央、南北に連なる秋田砂丘の内側で雄物川左岸に沿う。北方約一里の勝平山で砂丘は一段と高くなる。勝平山東側直下を雄物川が流れ、その北で日本海に注ぐ。新屋村は「秋田風土記」に「往古勝平山の麓に有、砂崩るゝ故に居を移す」とある。砂丘は西からの強い季節風を受けて内陸寄りに移動を重ね飛砂の害をもたらし、水田・人家に甚大な被害を与えてきた(「新屋村肝煎文書」新屋図書館蔵)。飛砂の防止は新屋村にとっての悲願であり、文化年間(一八〇四―一八)栗田定之丞による砂防林完成は画期的なものであった。

新屋村は百三段ももさだと総称されたが、享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に百三段新屋村とある。


新屋村
あらやむら

[現在地名]平賀町新屋

西流する遠手とつて沢が形成する傾斜のきつい扇状地上にあり、村の西で浅井あさい川が遠手沢と合流して引座ひきざ川となる。村の西は水田だが、川は深い崖状の河岸をもち、古い流路跡が深い溝・崖・階段状の地形を残す。そのため村内の道路は上り下りが多く、俗に新屋四十八あらやしじゆうはち坂といわれる。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「荒屋」とある。中世には村全体が地形を生かした新屋館で、おお館・館・西にし館・てら館など数多くの郭の間は深い浸食谷。「新屋茂樹家記録」によれば、元亀―天正(一五七〇―九二)の頃には新屋源次郎がおり、初め南部氏、次に大光寺氏、次に浪岡北畠氏、最後に大浦氏に従ったという。


新屋村
にいやむら

[現在地名]日南町新屋

まど(一〇七六・五メートル)の南西麓、北東流する日野川左岸に位置し、北は多里たり宿、同川対岸は湯谷ゆだに村。村内を日野往来が縦断する。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「シンヤ」と訓ずる。拝領高は二〇七石余、本免は六ツ六分。寛永一〇年(一六三三)の図帳写(日野郡史)に「多里村ノ内新屋」とみえ、田方二〇〇石余の等級は上田五町余・中田二町九反余・下田二町三反余・下々田二町一反余、発方の上田二畝・中田二畝余・下田一反余・下々田六畝余、畑方二六石余の等級は上畑一町四反余・中畑六反余・下畑六反余・下々畑一町余、発方の下々畑三反余、切畑一町九反余。


新屋村
あらやむら

[現在地名]焼津市栄町さかえまち三―六丁目・本町ほんまち一―二丁目・新屋

焼津村の東に位置し、東は駿河湾に臨む。益津ましづ郡に属する。寛永一〇年(一六三三)あるいは同一九年田中藩領となる(寛永一九年田中領郷村高帳など)。寛文四年(一六六四)の西尾忠成領知目録(寛文朱印留)には「新谷村之内」と記されているので、この頃は田中藩領と幕府領か他藩領との相給であったようである。国立史料館本元禄郷帳では田中藩領。その後も同藩領で(正徳二年土岐頼殷領知目録、享保九年土岐頼稔領知目録など)、安永六年(一七七七)幕府領となり、以後の領主の変遷は焼津村と同じ。寛永一九年の前掲郷村高帳では高一〇八石余。元禄郷帳では高九六石余。旧高旧領取調帳では沼津藩領一〇一石余、ほかに除地として青木あおき神社・松寿しようじゆ院各一石。


新屋村
にいやむら

[現在地名]美方町新屋

秋岡あきおか村の南東に位置し、南西の山奥には枝郷の熱田あつたがある。本村から熱田を経て赤倉あかくら(一三三二メートメ)西方の鞍部を越え、因幡国八東はつとう舂米つきよね(現鳥取県若桜町)に至る山道が通じていた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「にいや」とみえ、当地には林殿・石田殿・田淵殿などが住んでいた。

慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高一五〇石。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも同高。天保郷帳では高二〇九石余。


新屋村
あらやむら

[現在地名]上市町新屋

女川おながわ村の北、白岩しらいわ川と支流大岩おおいわ川が合流する平野部に位置し、北は大岩川を挟んで稗田ひえだ村。上市村からの大岩道と立山道が村端で交差する。交通の要衝にあり、現在舟橋ふなはし竹内たけのうちにある無量むりよう寺は初めここで創建されたという(上市町誌)正保郷帳では高六五六石余、田方四三町二反余・畑方五反、新田高二一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高四一三石、免五ツ二歩、小物成は山役六〇匁・鮎川役四匁(三箇国高物成帳)


新屋村
にいやむら

[現在地名]大田市大代町新屋おおしろちようにいや

邑智おおち祖式そじき村の南西に位置し、南は同郡湯谷ゆだに村・北佐木きたさき(現川本町)正保国絵図に村名がみえ、高五四六石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方四二三石余・畑方一二二石余、年貢高は米二七四石余・銀九八四匁余。家数は本家一〇一・門屋六六、人数六八九。鉄砲一挺があり、村内に二二町一反余の御立山がある。


新屋村
あらやむら

[現在地名]入善町新屋

黒部川扇状地の中央やや扇頂寄りに位置し、東は下山にざやま村、南は浦山新うらやましん村、西は一宿新ひとやどりしん村・小摺戸こすりど村。通称町新屋まちあらや向島むこうじま中島なかしま中坪なかつぼ上村かんむらしまに分れる。村中を入膳にゆうぜん用水・椚山くぬぎやま用水が流れる。宝永元年(一七〇四)の村名由来書上(清原家文書)によれば、かつては下り松さがりまつ村と称する往還の宿で、市も立っていたが、いったん退転し再び新しく市場を立てたので新屋の市とよんだという。近世初めまで黒部川の川筋にあたっていたが、治水が進むうちに耕地が増大していった。正保郷帳では高五〇〇石、田方三二町六反余・畑方七反、新田高二九石余。寛文一〇年(一六七〇)の高六九二石、免四ツ三歩、小物成は野役九〇匁・鱒役八匁・鮎川役六匁(三箇国高物成帳)


新屋村
あらやむら

[現在地名]穂高町大字有明ありあけ 新屋

中房なかぶさ川扇状地の扇央に位置する村落。その開発は、扇端の耳塚みみづか古厩ふるまやなどよりはややおくれて中世に開発された。初見は、文禄年代(一五九二―九六)に成立した筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附で、古厩のうちに含まれている。

正保(一六四四―四八)の国絵図によると、新屋村の南隣に南原みなみばら(村高一七石余)がみえる。この南原村は前記の文禄年代の郷帳に古厩のうちとして存在しているが、慶長一九年(一六一四)の安曇筑摩両郡御改惣寄御帳ではその名が消えており、慶安四年(一六五一)の新屋村の検地帳に、南原・牧分南原の地字並びに耕地がみられるところから新屋村に吸収されたことが知られる。


新屋村
あらやむら

[現在地名]富士吉田市新屋

上吉田かみよしだ村の南、現市域では富士山に近い最高所にある。南東から南西にかけては、旧一一ヵ村の入会地であるなしヵ原を経て富士山に続き、他はすべて上吉田村に接する。南東に小倉おぐら山、北にじよう山という小丘があり、南を桂川から分水した福地ふくち用水が西流する。中央を北西から南東に上吉田村から駿州方面への鎌倉街道が通じている。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に村名がみえ、高三〇石。


新屋村
あらやむら

[現在地名]婦中町新屋・上新屋かみあらや

神通川中流左岸に位置し、すぐ西をうしくび用水が流れる。北東は為成新ためなりしん村、南は横野よこの村。萩島はぎのしま村の枝村で、この地に新屋を作り開墾したので新屋村と称したという。明治期の郵便条例実施の際、荒屋あらや(現富山市)と混同するとの理由から上新屋村と改称した(婦負郡志)。元禄郷帳では高九七石余。享保六年(一七二一)の高一一〇石余(「村付高改帳」島倉家文書)


新屋村
にいやむら

[現在地名]境港市新屋町・幸神町こうじんちよう

高松たかまつ村の南に位置し、東は美保みほ湾に面する。地勢は砂地で平坦。村の中央を外浜境そとはまさかい往来が南北に通り、海岸沿いになだ道が走る。新屋の地名は各地にあり、中世の新開発集落呼称をさすことが多い。当地新屋も同様とする説がある(境港市史)。拝領高は一一八石余。本免三ツ五分。享保一九年(一七三四)の高一六〇石余(鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二三五石余、竈数一三一。「伯耆志」によると家数一二三・人数六五四、土産は海老。枝村に砂三軒屋すなさんげんやがある。天保七年(一八三六)の紺屋職人別申渡状(深田家文書)によると、紺屋職株をもつ者が一人いる。漁業が盛んで、享保八年には大網三・小引網四をもち、浦手運上銀五〇匁・網役銀一五匁余(御船手御定)、幕末には浦役銀三五匁余・網役銀一五匁余を納めた(藩史)


新屋村
あらやむら

[現在地名]村松町新屋

安出やすいで村の西、西は山谷やまや村に続く。集落の東に町頭まちがしら、西にたてうち土井どいこしの地字が残る。正保国絵図に新谷村とみえる。近世を通じて村松藩領別所組に属し、大原おおはら村とともに安出村地籍より分割されて新屋分・大原分と称されていた。文化一一年(一八一四)に村松藩主堀直庸が安出村より約五〇町歩の田を分割して一村をなしたといわれるが、幕末期の各大字所属石高及貢租(中蒲原郡誌)には「新屋分」と記し、総反別三〇町七反余、高二〇一石二斗余、貢租七三石五斗余である。


新屋村
あたらしやむら

[現在地名]上平村新屋

上野うわの村の北、庄川右岸の低い平坦地に集落があり、東は村領の山、西の庄川対岸は西赤尾町にしあかおまち村・下島したじま村。両村へ渡る籠渡しが架かり、籠綱の総長三五間・籠通用間数二二間(五ヶ山籠渡覚「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)。「三州志」は平瀬権三郎居館跡を記す。寛永七年(一六三〇)の高五六石余、免五ツ一歩余、定納金子九両四匁余(「検地見図帳並免定目録」川合家文書)。高・免は幕末まで変化なし。正保郷帳によると田方五反余・畑方三町二反余。明暦二年(一六五六)以後、納所金子一二両二匁一分余・塩硝役金子三匁八分余、蝋・漆・蓑・紙役金子三匁三分余、手上金子二匁七分余、計一四両三匁余を課せられており、この代銀六八五匁八分を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)


新屋村
あらやむら

[現在地名]粕川村新屋

込皆戸こみがいと岡組おかぐみの北東、女淵おなぶち村の北西に位置。寛文郷帳では女淵村に含まれた。元禄郷帳には「女淵村之内新屋村」とあり、高二六〇石、前橋藩領。江戸後期の御改革組合村高帳では家数四四、下野佐野藩領。明治一〇年(一八七七)頃は田二二町二反余・畑三三町七反余・宅地六町三反余・林三二町七反余。家数五六、ほかに社三・寺一・堂一、人数二八五、牡馬二・牝馬二六。


新屋村
あらやむら

[現在地名]田鶴浜町新屋

北流する二宮にのみや川下流域の左岸に接し、集落の周囲はすべて水田の小村。南西は田鶴浜村、北は川尻かわしり村。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高二一石余。寛文一一年(一六七一)の鹿島半郡高免付帳(長文書)によると高一二六石、免四ツ五歩八厘。同年以降加賀藩直轄領で、延宝七年(一六七九)の村御印(新屋区有文書)では高一二一石、免四ツ四歩、小物成として鳥役一匁。天保年間(一八三〇―四四)の村明細では高一二一石余、免四ツ四歩、家数一三・人数五六、馬三、稼は苧


新屋村
あらやむら

[現在地名]東部町大字新屋

北国脇往還田中たなか宿より禰津ねつに通ずる道に沿う村。東は禰津東町、西は東上田ひがしうえだ村、南は棗田なつめだ村、北は禰津西ねつにし町と境をなす。

もとは禰津城山の南山麓有賀在家地籍にあったが、寛永年間(一六二四―四四)現在の地に芝切六戸が移り、新屋とよぶようになったと伝える。


新屋村
あらやむら

[現在地名]八尾町新屋

西にしはら村の南方、大長谷おおながたに川上流左岸にある。飛州二ッ屋村ひしゆうふたつやむら道が通る。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では内名うちみよう村の一五町ほど南にある枝村新田としてみえ、高二九石余。


新屋村
あらやむら

[現在地名]小田原市新屋

西端をかり川が流れ、東は柳新田やなぎしんでん村、南は飯田岡いいだおか村、北は小台こだい村と接する。北を富士道が東西に走る。近世は小田原藩領。正保国絵図には「飯田新屋」とあり、「風土記稿」によれば、万治元年(一六五八)の検地帳には「飯田郷新屋村」とあるといい、元禄国絵図には「新屋村」と記す。


新屋村
あらやむら

[現在地名]三島市新谷あらや

平田ひらた村の東に位置する。新谷村とも。もとは北東の青木あおき村と一村であったが、分離してできた村すなわち「新屋」であったという(増訂豆州志稿)。元禄郷帳・天保郷帳ともに高三〇〇石余。江戸時代初めは幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本土岐・進の両家領となり幕末に至る(韮山町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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