横須賀城跡(読み)よこすかじようあと

日本歴史地名大系 「横須賀城跡」の解説

横須賀城跡
よこすかじようあと

[現在地名]大須賀町横須賀 城内

小笠山の南に延びる山塊のうちの松尾まつお(二六メートル)に築かれた平山城跡。国指定史跡。東西約六五〇メートル・南北約三五〇メートルの城域をもつ。松尾城・鶴岡つるおか城・両頭りようがしら城ともいう。江戸時代は横須賀藩の藩庁であった。築城当初は松尾山の南から西側一帯は遠州灘に続く内海(入江)で、天然の要害であったという。

〔築城前後〕

天正六年(一五七八)七月三日、徳川家康の家臣松平家忠は「よこすか取出場」に着き、翌日から普請を開始、一五日に完成をみて、一六日に三河国に帰っている(家忠日記)。ただしこの普請は本格的な築城前のことで、場所も現在の三熊野みくまの神社北東の小高い山という。同年一一月に遠江国に進攻した武田勝頼は、三日に横須賀城の向いまで進み、横須賀城際に着陣していた家康と対峙。のち武田軍はいったん高天神たかてんじん(現大東町)に引き、四日には武田軍の物見が再び横須賀城周辺で活動している(以上、同書)。この頃のものと推定される一一月一七日の穴山信君書状写(甲州古文集)によると、家康が横須賀に陣を移したとの報が武田方の穴山信君に伝わっている。翌七年一一月一三日、家康軍は懸川かけがわからの帰途、横須賀に陣を寄せている。高天神城への圧力を強めた家康は、翌八年六月一〇日、横須賀まで出陣し(家忠日記)、同城は翌年三月落城する。なお「家忠日記増補追加」は天正四年二月七日条に横須賀築城と記し、「浜松御在城記」なども同年のこととしているが、「徳川実紀」「甲陽軍鑑」などが横須賀城での家康と勝頼の対峙を天正四年のこととしているのとかかわり、誤伝の可能性が高い。

高天神城の陥落によって横須賀城の軍事的要塞としての意義は失われたが、家康は海上交通上の要衝にあった当城に引続き大須賀(のち松平姓となる)康高を配置し、横須賀周辺諸村(三万石)を領知させた。天正一六年康高没後は養子の忠政(上野館林藩主榊原康政次男)が継ぐが、同一八年に家康の関東移封に伴い、忠政も同一九年上総国久留里くるり(現千葉県君津市)に移った(「郷里雑記」など)。この後に大坂から豊臣秀次の属将渡瀬繁詮が三万石で入部し、ほかに城東きとう郡内の秀次蔵入地(一万八千石)の代官となったという(「大かうさまくんきのうち」など)。文禄四年(一五九五)繁詮は秀次事件に連座して改易され自害。繁詮には過酷な治政という伝承しかなかった。同年七月、渡瀬氏の家臣であった有馬玄蕃頭豊氏が三万石を与えられて入部した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「横須賀城跡」の解説

よこすかじょうあと【横須賀城跡】


静岡県掛川(かけがわ)市横須賀にある城跡。小笠丘陵の末端が遠州灘に落ち込んでいく、同市大須賀町横須賀に位置する。1575年(天正3)に長篠(ながしの)の戦いで勝利し、浜松城に居城していた徳川家康が、1578年(天正6)、菊川下流域の平地部からやや離れた北西部の山城、高天神城奪還のために、大須賀康高に命じて築城した。城は小高い丘陵とその山麓の砂丘にあり、西進すれば浜松、東進すれば相良(さがら)にいたる街道に面している。大須賀康高以降、大須賀忠政豊臣秀吉の家臣らが城主となり、関ヶ原の戦い以後は大須賀忠政が6万石で再入部して横須賀藩が成立した。遺構は丘陵上の天守台や本丸、西の丸、北の丸、松尾山、砂丘上の二の丸、三の丸、また松尾山北東の大空濠が残っている。また城郭の北、西、南を画する堀跡があって埋め立てられた場所もあるが、玉石積みの石垣遺構がよく残り、隠し堀といわれる舟入り状の堀跡は入り江に面し、横須賀港を押さえていた城の特色がよくわかる。横須賀城は武田方の諏訪原(すわはら)城、武田・徳川方の争奪地となった高天神城とあわせ、武田方の進出と衰亡や徳川氏の成長過程を示す貴重な史跡であることから、歴史的意義とその保存状況を考えて、1981年(昭和56)に国の史跡に指定された。1994年(平成6)から石垣が復元整備され、周辺は城跡公園になっていて、天守台跡からは眼下に横須賀城下町から太平洋、遠く浜松市街地方面まで見渡せる。JR東海道本線袋井駅からしずてつシャトルラインバス「七軒町」下車、徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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