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顕昭 けんしょう

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美術人名辞典の解説

顕昭

平安後期の歌人。大治5年頃生。姓は藤原、亮公・亮君・亮阿闍梨と称する。歌学家である六条家の中心人物の一人。幼時比叡山で修学し、離山後は仁和寺御室の守覚法親王と親交して注釈を多く著わし、歌合に多く出詠した。著書に『今撰集』『古今秘注抄』『拾遺抄注』等がある。歿年未詳。

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デジタル大辞泉の解説

けんしょう〔ケンセウ〕【顕昭】

[1130ころ~1210ころ]平安末・鎌倉初期の歌人・歌学者。藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)の養子。義兄清輔とともに六条家歌学を大成。著「袖中抄(しゅうちゅうしょう)」「古今集註」など。

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百科事典マイペディアの解説

顕昭【けんしょう】

平安末・鎌倉初期の歌学者,歌人。藤原顕輔の猶子で清輔の義弟。清輔とともに六条家歌学を確立した。藤原俊成の《六百番歌合》の判詞を批判して争った《六百番陳状(顕昭陳状)》は有名である。
→関連項目歌学寂蓮

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朝日日本歴史人物事典の解説

顕昭

没年:承元3頃(1209)
生年:大治5頃(1130)
平安時代末・鎌倉時代初期の僧侶歌人。左京大夫藤原顕輔の養子。実父母は不明。僧位は法橋に至る。亮君,亮阿闍梨とも呼ばれた。若いとき比叡山で修行したが,やがて離山。仁和寺に入り,覚性法親王や守覚法親王の庇護を受ける。建久5(1194)年『六百番歌合』,建仁3(1203)年『千五百番歌合』など多くの歌合に出詠。『六百番歌合』における藤原俊成の判に反駁して,『六百番陳状』を著すなど,俊成・定家の御子左家に対抗して,歌道家としての六条家の勢力維持に努めた。残した作品のなかには,「鯨とるさかしき海の底までも君だにあらば波路しのがむ」のように,優美な王朝和歌の伝統から逸脱した作品が散見する。歌学書『袖中抄』『万葉集時代難事』や,私選集『今撰和歌集』など,著作は多く,博引旁証の歌学者としても知られている。<参考文献>久曾神昇『顕昭・寂蓮』

(加藤睦)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

けんしょう【顕昭】

1130ころ‐1210ころ(大治5ころ‐承元4ころ)
平安末・鎌倉初期の歌人。藤原顕輔の猶子。清輔・重家・季経らの義兄弟。清輔とともに六条家の歌学を確立した。1149年(久安5)《山路歌合》に出詠してから1207年に《日本紀歌註》を著すまで59年の歌歴には,多くの歌合に参加し,50歳ころからは判者として重きをなした。藤原俊成の主宰する御子左家(みこひだりけ)の歌学と対抗して,六条家歌学の代表的な論客であったが,顕輔・清輔の死後,《六百番歌合》における俊成の判定に対して抗議した《顕昭陳状》はとくに有名。

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大辞林 第三版の解説

けんしょう【顕昭】

1130頃~1210頃) 平安末期・鎌倉初期の歌僧・歌学者。藤原顕輔の養子。歌風は知的。六条家の歌学を代表し、俊成らの御子左みこひだり家と対立。「千載和歌集」以降の勅撰集に四三首入集。著「六百番陳状(顕昭陳状)」「古今集註」「袖中抄」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

顕昭
けんしょう

[生]大治5(1130)頃
[没]承元4(1210)頃
平安時代末~鎌倉時代前期の歌人,歌学者。藤原顕輔 (あきすけ) の養子。義兄弟の清輔らとともに六条家歌学の中心人物。幼時から延暦寺で修行し,のちに仁和寺に移り,覚性 (かくしょう) 法親王や守覚法親王と親交があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

顕昭
けんしょう

生没年不詳。平安末期から鎌倉初期にかけての歌人、歌学者。正三位(しょうさんみ)左京大夫藤原顕輔(あきすけ)の猶子(ゆうし)、実父母は不詳。生年は1130年(大治5)ころと推定され、最終事蹟(じせき)は1209年(承元3)「長尾社歌合(うたあわせ)」への出詠である。幼くして叡山(えいざん)に修学、のち仁和寺(にんなじ)に移り、法橋(ほっきょう)に至る。早く1165年(永万1)ころ『今撰(こんせん)集』を撰(えら)んだが、仁和寺の守覚法親王(しゅかくほっしんのう)に近づいてからは、親王のため多くの注釈書、歌学書を奉った。その考証の詳密さ、博覧強記は類をみない。77年(治承1)兄清輔(きよすけ)の没後は衰退する六条藤家を支え、93年(建久4)の『六百番歌合』では御子左(みこひだり)家と激しく対立し、『六百番陳状(ちんじょう)』を著した。和歌は『万葉集』尊重の立場から古語を多用した生硬なものが多い。著書に『万葉集時代難事(じだいなんじ)』『柿本人麻呂勘文(かきのもとのひとまろかんもん)』、『古今集』より『詞花(しか)集』までの抄注(『後撰』『金葉』は散逸)、『古今秘注抄』『散木(さんぼく)集注』『袖中(しゅうちゅう)抄』等。『千載集』以下に入集(にっしゅう)[川上新一郎]
 板びさしさすやかややの時雨(しぐれ)こそ音し音せぬ方はわくなれ
『久曽神昇著『顕昭・寂蓮』(1942・三省堂) ▽久曽神昇編『日本歌学大系 別巻2・4・5』(1958、80、81・風間書房)』

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世界大百科事典内の顕昭の言及

【顕註密勘】より

…別名《古今秘註抄》ほか。六条藤家の顕昭が著した古今集注釈書(現存の顕昭《古今集註》とは別)に,1221年(承久3),藤原定家が自説を〈密勘(内密の考え)〉として書き加えたもの。定家は顕昭の注説におおむね肯定的だが,両者の学風が対照的に異なる例もみえる。…

【古今和歌集】より

…注釈書は藤原教長の《古今集註》が最も古く,治承(1177‐81)ころの作である。ついで顕昭の《古今集註》がある。これは1191年(建久2)に完成し12巻と大きく,現在散逸した資料も多く用いた詳細なもので研究上重要である。…

【袖中抄】より

…《顕秘抄》と題する3巻本もあるが,一般にはそれを増補したとみられる20巻本をさす。1186‐87年(文治2‐3)ころ顕昭によって著され仁和寺守覚法親王に奉られた。《万葉集》以降《堀河百首》にいたる時期の和歌から約300の難解な語句を選び,百数十に及ぶ和・漢・仏書を駆使して綿密に考証。…

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