平安時代には「うたのみち」といわれたが、鎌倉時代以降は音読されることが多い。平安中期ごろから専門歌人としての家系が生じたが、とくに平安末期に入ると、題詠による百首歌を中心として宮廷社会における技芸としての和歌が重んじられるようになり、歌合(うたあわせ)批評も精細になって、技術と理念との両面にわたって、和歌はいかにあるべきかが強く意識されるようになる。そこで、その意識に基づく歌学の知識とその学習体系がそれぞれの和歌の家で規範化され、歌道とよばれるようになるのであるが、具体的には、源経信(つねのぶ)―俊頼(としより)―俊恵(しゅんえ)と続く六条源家(ろくじょうげんけ)、続いて藤原顕季(あきすえ)―顕輔(あきすけ)―清輔(きよすけ)およびそれ以後に及ぶ六条藤家(とうけ)、さらに藤原俊成(しゅんぜい)―定家(ていか)―為家(ためいえ)以下現代にまで続いた御子左(みこひだり)家が平安末期(院政期)に現れている。なかでも藤原俊成において「うたのみち」の意識とその尊重とは明確で、為家の子の代に生じた二条家(血統は南北朝期に絶える)と冷泉(れいぜい)家とは江戸時代にも及んで歌界に大きな影響を与えた。俊成、定家には強い古典主義ないし伝統主義の自覚があったからであるが、のちにはしだいに主体的な自覚が消滅し、末梢(まっしょう)的な歌学知識とその規範化が顕著になった。この歌道意識は明治時代に入って自我や個性を重視する風潮のなかで解体することになる。
[藤平春男]
和歌の道のこと。漢詩文の文章道(もんじようどう)に対して和歌(やまとうた)の創作および和歌に関する学問を追求する学芸。和歌は日本語による唯一の文芸であるという自覚は奈良朝万葉歌人から見られるが,漢詩と対抗する宮廷文芸たりうるとする歌道意識が明確になるのは10世紀初頭の《古今集》撰進頃からで,《紀師匠家曲水宴和歌(きししようけごくすいえんのわか)》の凡河内躬恒の序でも〈うたのみち〉と言っている。以後,勅撰和歌集の編纂が聖代のあかしとされ,歌会・歌合が盛行,それにつれて歌題・題意の組織化・規範化,古典・故実研究の専門化がすすみ,ひいては詠歌自体が宮廷儀礼体系の中で制度化されることとなった。11世紀中葉からは師弟制度の萌芽も見え,歌壇活動も文芸至上の傾向をたどり,秀歌のためいのちをかける風潮まで生じた。中世以降も藤原俊成の和歌陀羅尼(だらに)観のような歌道の神秘化が行われ,宮廷衰退後も,神授の伝統を負う歌道の絶対化と和歌の尊重・親昵(しんじつ)が長く続いた。
執筆者:近藤 潤一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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