竹内好(読み)タケウチヨシミ

デジタル大辞泉 「竹内好」の意味・読み・例文・類語

たけうち‐よしみ【竹内好】

[1910~1977]中国文学者・評論家長野の生まれ。魯迅ろじん研究翻訳とともに、独自の見識で近代日本文化を批判。著「魯迅」「国民文学論」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「竹内好」の意味・読み・例文・類語

たけうち‐よしみ【竹内好】

  1. 中国文学者・評論家。長野県出身。東京帝国大学卒。武田泰淳らとともに中国現代文学研究の基礎を築いた。また、中国文学研究によって養った視点から、日本社会批判を展開した。翻訳に「魯迅文集」、評論に「魯迅」「現代中国論」など。明治四三~昭和五二年(一九一〇‐七七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「竹内好」の解説

竹内 好
タケウチ ヨシミ

昭和期の中国文学者,評論家



生年
明治43(1910)年10月2日

没年
昭和52(1977)年3月3日

出生地
長野県南佐久郡臼田

学歴〔年〕
東京帝国大学文学部支那文学科〔昭和9年〕卒

主な受賞名〔年〕
毎日出版文化賞〔昭和45年〕「中国を知るために」

経歴
昭和9年武田泰淳らと中国文学研究会を創設、10年「中国文学月報」(のち「中国文学」)を創刊。12年10月から2年間北京に留学。15年回教圏研究所に入所。18年11月応召、21年復員。24年慶応義塾大学講師を経て、28年東京都立大学教授となる。傍ら、中国近代文学とくに魯迅の研究翻訳を行なう。同年思想の科学研究会に参加。29年には「国民文学論」を発表し論争を展開、論壇で活躍する。33年憲法問題研究会に参加。35年安保の国会強行採決抗議して、都立大教授を辞任。38年中国の会を結成、雑誌「中国」を創刊、47年の日中国交回復まで続けた。この間、40年に“評論家廃業”を宣言。以後、魯迅の翻訳に没頭。主著に「魯迅」「現代中国論」「日本イデオロギイ」「知識人の課題」「不服従の遺産」「予見と錯誤」「日本と中国のあいだ」のほか、「竹内好全集」(全17巻 筑摩書房)、「竹内好評論集」(全3巻)、「魯迅文集」(全6巻 訳編)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「竹内好」の意味・わかりやすい解説

竹内好 (たけうちよしみ)
生没年:1910-77(明治43-昭和52)

中国文学研究者。長野県臼田町に生まれ,東京府立一中,大阪高校をへて東京大学文学部支那文学科を卒業。1934年学友とともに中国文学研究会を結成し,1943年に解散するまで,在野の中国研究団体の一員として,当時の日本政府とはちがう中国観を育てた。このことは当然に日本観のつくりかえを含む。その後魯迅研究に大きな影響を与えた戦時下の《魯迅》(1944)にはじまり第2次大戦後の《現代中国論》(1951)にいたる著作は,日本の文化を中国の文化と比較して〈優等生文化〉と位置づけ,批判した。戦後は日中国交のない時代に〈中国の会〉をつくり雑誌《中国》を発行し,72年の国交回復までつづけた。東京都立大学教授となったが,1960年の日米安全保障条約承認をめぐる安保闘争で,抗議の辞職(1961)をした。個人訳《魯迅文集》(全6巻)を計画したが途上食道癌に倒れ,門下の人々がこの仕事をひきついで完成した。日本の近代文化に対する痛烈な批判は広く同時代人に影響をあたえた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹内好」の意味・わかりやすい解説

竹内好
たけうちよしみ

[生]1910.10.2. 長野,臼田
[没]1977.3.3. 東京
中国文学者。 1934年東京大学支那文学科卒業。同年,武田泰淳,岡崎俊夫らと,旧来の漢学,支那学を否定して「中国文学研究会」を結成,機関誌『中国文学月報』 (のち『中国文学』) の編集にあたった。第1回大東亜文学者会議に際し非協力を表明して 1943年同研究会を解散,『魯迅』 (1944) を書き上げ一兵卒として応召。 1946年復員後は,在野の評論家として,中国文学との対比による日本の「近代」批判,「国民文学」の提唱,現代中国論など幅広い評論活動を行なった。 1953年東京都立大学人文学部教授となり,1960年日米安全保障条約の国会強行採決に抗議して辞職。 1963年「中国の会」を発足させ,雑誌『中国』を創刊,『中国を知るために』などのエッセーを載せた。『魯迅選集』 (1965,共訳) ,『魯迅文集』 (6巻,1976~78) など魯迅作品の翻訳のほか,『竹内好評論集』 (3巻,1966) ,『日本と中国のあいだ』 (1973) などがある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹内好」の意味・わかりやすい解説

竹内好
たけうちよしみ
(1910―1977)

評論家。長野県佐久(さく)市出身。東京府立一中、大阪高校を経て、1934年(昭和9)東京帝国大学文学部支那(しな)文学科卒業。卒業直前に岡崎俊夫(としお)、武田泰淳(たいじゅん)らと結成した中国文学研究会によって、中国現代文学研究の基礎を築いた。『魯迅(ろじん)』(1944)は日本最初の本格的魯迅論であり、第二次世界大戦中の名著の一つとされる。戦後1954年(昭和29)東京都立大教授になったが、1960年安保条約強行採決に抗議して辞任した。評論家としては『現代中国論』(1951)をはじめとする、日本近代文化の近代主義的性格の批判、「国民文学論」の提唱など、中国を対極に意識した日本社会への鋭い批判で、大きな影響を与えた。翻訳者としても魯迅をはじめとする翻訳で指導的役割を果たし、個人訳『魯迅文集』6巻(1976~78)の完成近く癌(がん)のため昭和52年3月3日死去。

[丸山 昇]

『『竹内好全集』全17巻(1980~82・筑摩書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「竹内好」の意味・わかりやすい解説

竹内好【たけうちよしみ】

中国文学者,評論家。長野県生れ。東大支那文学科卒。武田泰淳らと中国文学研究会を結成,官学化した漢学・支那学を批判した。戦時下,応召前に書いた《魯迅》が最初の出版。戦後は《現代中国論》《国民文学論》など,中国文化と比較しての日本文化・近代化批判を繰り広げ大きな影響力を持った。1953年より都立大教授となるが,日米安全保障条約強行採決に抗議して1960年辞職。橋川文三らと〈中国の会〉を発足,雑誌《中国》を創刊し,これに連載した《中国を知るために》は毎日出版文化賞を受賞した。晩年は《魯迅文集》全6巻の翻訳に取り組んだ。
→関連項目鶴見俊輔

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹内好」の解説

竹内好 たけうち-よしみ

1910-1977 昭和時代の中国文学者,評論家。
明治43年10月2日生まれ。昭和9年武田泰淳らと中国文学研究会を結成して「中国文学月報」を発刊。戦後都立大教授をつとめたが,35年日米安保条約改定の強行採決に抗議して辞職。魯迅の研究と翻訳で知られ,日本文化の近代主義を批判する評論でも活躍した。昭和52年3月3日死去。66歳。長野県出身。東京帝大卒。著作に「魯迅」「中国を知るために」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「竹内好」の解説

竹内 好 (たけうち よしみ)

生年月日:1910年10月2日
昭和時代の中国文学者;評論家。東京都立大学教授
1977年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の竹内好の言及

【魯迅】より

…1937)が最初のまとまった画期的なものであった。研究書としては,竹内好《魯迅》(1944)が,アジアの被抑圧民族の悲哀と苦悩を象徴する知識人としての魯迅の像を,アジアの中の日本に生きる竹内自身の苦悩に重ね合わせて描き,その後の魯迅研究に大きな影響を与えた。戦後は,《魯迅選集》(全12巻。…

※「竹内好」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android