精選版 日本国語大辞典 「竹内好」の意味・読み・例文・類語
たけうち‐よしみ【竹内好】
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中国文学研究者。長野県臼田町に生まれ,東京府立一中,大阪高校をへて東京大学文学部支那文学科を卒業。1934年学友とともに中国文学研究会を結成し,1943年に解散するまで,在野の中国研究団体の一員として,当時の日本政府とはちがう中国観を育てた。このことは当然に日本観のつくりかえを含む。その後魯迅研究に大きな影響を与えた戦時下の《魯迅》(1944)にはじまり第2次大戦後の《現代中国論》(1951)にいたる著作は,日本の文化を中国の文化と比較して〈優等生文化〉と位置づけ,批判した。戦後は日中国交のない時代に〈中国の会〉をつくり雑誌《中国》を発行し,72年の国交回復までつづけた。東京都立大学教授となったが,1960年の日米安全保障条約承認をめぐる安保闘争で,抗議の辞職(1961)をした。個人訳《魯迅文集》(全6巻)を計画したが途上で食道癌に倒れ,門下の人々がこの仕事をひきついで完成した。日本の近代文化に対する痛烈な批判は広く同時代人に影響をあたえた。
執筆者:鶴見 俊輔
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評論家。長野県佐久(さく)市出身。東京府立一中、大阪高校を経て、1934年(昭和9)東京帝国大学文学部支那(しな)文学科卒業。卒業直前に岡崎俊夫(としお)、武田泰淳(たいじゅん)らと結成した中国文学研究会によって、中国現代文学研究の基礎を築いた。『魯迅(ろじん)』(1944)は日本最初の本格的魯迅論であり、第二次世界大戦中の名著の一つとされる。戦後1954年(昭和29)東京都立大教授になったが、1960年安保条約強行採決に抗議して辞任した。評論家としては『現代中国論』(1951)をはじめとする、日本近代文化の近代主義的性格の批判、「国民文学論」の提唱など、中国を対極に意識した日本社会への鋭い批判で、大きな影響を与えた。翻訳者としても魯迅をはじめとする翻訳で指導的役割を果たし、個人訳『魯迅文集』6巻(1976~78)の完成近く癌(がん)のため昭和52年3月3日死去。
[丸山 昇]
『『竹内好全集』全17巻(1980~82・筑摩書房)』
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…1937)が最初のまとまった画期的なものであった。研究書としては,竹内好《魯迅》(1944)が,アジアの被抑圧民族の悲哀と苦悩を象徴する知識人としての魯迅の像を,アジアの中の日本に生きる竹内自身の苦悩に重ね合わせて描き,その後の魯迅研究に大きな影響を与えた。戦後は,《魯迅選集》(全12巻。…
※「竹内好」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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