武見太郎
たけみたろう
(1904―1983)
医師。長期間にわたり日本医師会会長を務め、「喧嘩(けんか)太郎」とあだ名されるほどつねに攻撃的な態度で、厚生行政に医師会の意見を反映させた。明治37年3月7日、京都府に生まれる。1930年(昭和5)慶応義塾大学医学部卒業後、内科学教室に入ったが、意見があわず、理化学研究所の仁科芳雄(にしなよしお)のもとで、原子物理学の医学的応用、初期の心電計の開発に従った。1938年東京・銀座に診療所を開設し、その当初から待合室に「現役の大将、大臣と老人、急患優先」を掲げたという。第二次世界大戦後、新生医師会の発足に伴い、地区医師会、日本医師会代議員を経て、1950年(昭和25)田宮猛雄(たけお)(1889―1963)会長とともに副会長に選出され、1957年第6代会長となり、以降13期25年間その任にあった。健康保険診療における制限の撤廃、医療報酬の改定のために、ともに保険医総辞退戦術(1961、1971)をとるなどして、医療保健行政における医師会の主導性の確立に努めた。1975年アジアで初の世界医師会会長となり、東京総会を主宰した。昭和58年12月20日死去。
[中川米造]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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武見 太郎
タケミ タロウ
昭和期の医師 元・日本医師会会長。
- 生年
- 明治37(1904)年3月7日
- 没年
- 昭和58(1983)年12月20日
- 出生地
- 京都府京都市
- 学歴〔年〕
- 慶応義塾大学医学部〔昭和5年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 勲一等旭日大綬章〔昭和50年〕,名誉大英勲章第二位〔昭和52年〕
- 経歴
- 理研の仁科研究室で放射線利用医学などを学び、都内で開業後、昭和25年に日本医師会の副会長、32年に同会長に就任。以来連続13選し、57年3月に退くまで25年間在任。その間、医療行政に大きな発言力をふるい、“けんか太郎”の異名も。また16年に結婚した英子夫人は当時の内大臣牧野伸顕の孫娘。牧野の長女は吉田元首相夫人という関係から吉田氏の主治医を務めるなど政界とのパイプは太く、強い政治力にもつながった。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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武見太郎 たけみ-たろう
1904-1983 昭和時代の医師。
明治37年3月7日生まれ。理化学研究所の仁科芳雄(にしな-よしお)のもとで原子物理学の医学的応用の研究に従事。のち銀座に武見診療所を開設。昭和32年から57年まで日本医師会会長をつとめ,医療保健行政への医師会の発言力をつよめ,「けんか太郎」の異名をとった。昭和58年12月20日死去。79歳。京都出身。慶大卒。著作に「実録日本医師会」など。
【格言など】入院してみて,はじめて患者というのはかわいそうな存在だということがわかったよ
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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武見太郎
たけみたろう
[生]1904.3.7. 京都
[没]1983.12.20. 東京
日本医師会会長。 1930年慶應義塾大学医学部を卒業,38年から東京銀座に診療所を開き,内科臨床医として知られた。第2次世界大戦後,50年日本医師会副会長,57年同会長となる。政府の国民皆保険政策に対し,開業医の立場を強力に主張した。医師会系議員を動員し,政府の医療政策,健保行政に巨大な影響力をもった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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武見 太郎 (たけみ たろう)
生年月日:1904年8月7日
昭和時代の医師。日本医師会会長
1983年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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