日本大百科全書(ニッポニカ) 「製茶業」の意味・わかりやすい解説
製茶業
せいちゃぎょう
茶園で栽培・収穫された茶(ツバキ科の常緑樹)の葉を緑茶や紅茶などに加工し、販売する産業。
[保志 恂・加瀬良明]
歴史的展開
茶は従来東南アジアの原産といわれていたが、今日ではほぼ中国雲南省が原産地であると推定されている。茶の栽培・製造の歴史は中国がもっとも古く、周代に始まる。日本にも自生の茶はみられるが、栽培が始まるのは9世紀初頭に中国から導入されたもので、中世の禅文化の興隆とともに普及し、茶の湯が確立して以来、栽培製造が盛んになった。江戸時代には、茶栽培は城下町などの封建都市の発展により刺激されて農村の商業的農業として発達し、全国的に普及した。1859年(安政6)の開港後、茶業は飛躍的な発展をみることになるが、山城(やましろ)、近江(おうみ)、伊勢(いせ)、美濃(みの)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)などの茶業地域の形成は、宇治に発達した蒸製煎茶(せんちゃ)製法(従来は釜熬(かまいり)製茶および日乾(ひぼし)製粗製茶)が化政(かせい)期(1804~30)以降全国的に普及し、輸出貿易の花形となるとともに、茶生産の地域的集中をもたらした。1867年(慶応3)には茶の海外輸出は輸出総額の16.3%に達した。
明治期に入ると、1874年(明治7)に内務省勧業寮農政課に製茶掛が設置され、士族授産による茶園開設などにも刺激されて、静岡県などでは茶業が勃興(ぼっこう)した。当初、茶貿易は外国商館に握られていたが、91年に原崎源作(はらざきげんさく)により荒茶(あらちゃ)再製機械が発明されると徐々に日本茶商の手に移るが、明治末年まで過半を占めることはできなかった。製茶技術は、98年に高林謙三(たかばやしけんぞう)の揉捻(じゅうねん)器の発明により手揉(てもみ)製茶から機械製茶へ移行し、在来的な各地の茶生産は衰退するものの、静岡では大規模な近代的生産が展開した。輸出総額に占める茶の比重は明治30年代中ごろから漸減し、1912年(大正1)には総額のわずか2.6%を占めるにすぎなくなる。17年には第一次世界大戦の影響で史上最高の輸出額を記録したが、最大の市場であったアメリカについては、戦後、インド・セイロン紅茶の進出で輸出を大幅に減じ、新市場として北アフリカ、中央アジア、ソ連(当時)等を開拓することを余儀なくされた。昭和期に入ると電動機導入による再製工場施設の改善・簡易化が進み、輸出の停滞のなかで、集荷地の茶商、仲買、委託問屋などの仲介業者の荒茶再製業への転換傾向も進んだ。第二次世界大戦中には統制経済のなかで政策的に産地と消費地が直結させられ、荒茶産地の産業組合や連合会等の農業団体や集荷地茶商の再製工場が著しく増加した。戦後、高度経済成長期以降茶産地における労力不足と労賃上昇は著しく、これに対して、省力機械化技術の積極的導入が進められ、自動摘採機の採用、大型煎茶工場の設立、連続型製茶機の導入などとともに、コンピュータ化も一部進んでいる。
紅茶は、1610年、オランダ東インド会社のヨーロッパへの中国茶の紹介に始まり、18世紀中葉、オランダがジャワで、イギリスがインド、セイロンでそれぞれアッサム種を栽培し、紅茶製造に成功してから、それまでの中国茶と日本茶しかなかった世界市場で需要を伸ばしていった。日本でも明治以降紅茶栽培が行われたが、近年ほとんど作付けはなされていない。
[保志 恂・加瀬良明]
近年の動向
現在、世界のおもな茶の産地は、インド、中国、スリランカ、ケニア、トルコ、インドネシアなどの諸国である。
わが国の茶の栽培面積は、1980年(昭和55)~83年の6万1000ヘクタールから2001年(平成13)の5万0700ヘクタールへと推移し、荒茶生産量は1980年の10万2300トン以降減少し、2001年8万8500トンとなり、ほとんどが緑茶である。近年、緑茶の輸出は著しく減少し、2000年で704トンである。他方、茶の輸入量は増加が著しく、1999年で紅茶が1万3807トン、緑茶が1万2047トン、その他(ウーロン茶、包種茶〈パオチョン茶〉など)が2万3415トン、合計4万9269トンであり、世界有数の茶の輸入国となっている。
[保志 恂・加瀬良明]
『大石貞男著『日本茶業発達史』(1983・農山漁村文化協会)』▽『山本正三著『茶業地域の研究』(1973・大明堂)』▽『角山栄著『茶の世界史』(中公新書)』▽『加藤祐三著『イギリスとアジア――近代史の原画』(岩波新書)』