大正・昭和時代の官僚政治家。東京に生まれる。1892年(明治25)帝国大学卒業後、1894年に内務省に入る。1899年施行の著作権法を起草し、著作権を確立した。1913年(大正2)内務次官となる。その前年貴族院議員に勅選され、1918年寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣、1922年加藤友三郎(ともさぶろう)内閣、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣の各内相を歴任し、1926年政友会に入党した。1927年(昭和2)田中義一(ぎいち)内閣に文相として入閣、第二次世界大戦中には興亜(こうあ)同盟の幹部などを務め、戦後、戦犯に指名されたがまもなく釈放された。内務官僚の大御所的存在であった。また、明治時代の藩閥官僚と昭和期に現れてくる新官僚との中間の時期の官僚の一つの典型でもあった。
[雨宮昭一]
『西尾林太郎・尚友倶楽部編『水野錬太郎回想録・関係文書』(1999・山川出版社)』▽『大家重夫著『著作権を確立した人々 第2版――福沢諭吉先生、水野錬太郎博士、プラーゲ博士…』(2004・成文堂)』
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
明治〜昭和期の内務官僚,政治家 文相;内相;貴院議員(勅選)。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
政友会系の官僚政治家。秋田出身。東京帝国大学卒業後,第一銀行から内務省に移り内務参事官,内相秘書官,神社・土木・地方各局長を歴任する。1912年貴族院議員に勅選,翌年内務次官。政友会系の官僚の旗頭として寺内正毅,加藤友三郎,清浦奎吾(けいご)各内閣の内相,朝鮮総督府政務総監を務め,26年政友会に入党し田中義一内閣の文相に就任したが,久原房之助の入閣に反対して水野文相優諚問題(水野が優諚降下を理由に文相留任を声明したが,累を皇室に及ぼしたとして非難を浴びた)を起こし辞任。その後も政友会系の内務官僚の中心として,民政党系の伊沢多喜男と勢力を競っていたが,35年岡田啓介内閣の審議会委員となり党議に触れて離党。のち協調会会長として産報運動を推進し,産報連盟会長,産業報国会顧問等を務めた。なお,地方自治問題の権威でもあった。
執筆者:金原 左門
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1868.1.10~1949.11.25
明治~昭和前期の官僚・政治家。秋田県出身。東大卒。内務省参事官・内相秘書官・神社局長・地方局長・内務次官などを歴任。1918年(大正7)寺内内閣の内相,翌年斎藤実(まこと)朝鮮総督のもとで政務総監を務め文化政策を推進。22~24年加藤友三郎・清浦両内閣の内相。26年(昭和元)立憲政友会に入り,27年田中義一内閣の文相となったが,翌年久原房之助の入閣に反対して辞任。貴族院における政友会議員の中心であった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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