日本歴史地名大系 「永野村」の解説
永野村
ながのむら
永野村
ながのむら
中世よりみえる
永野村
ながのむら
- 佐賀県:武雄市
- 永野村
橘薩摩一族所領支配注文(小鹿島文書)に「一 永野村 孫三郎公通 上課本上中再住有沙汰上課定、孫三郎公秀 下上課本覆勘奇捐了」とある。建武三年(一三三六)の文書と推定されている。この地は奈良時代は
この村の東部の台地は縄文時代の遺物散布地である。
武雄村とこの村の境の
永野村
ながのむら
「土佐州郡志」に村名がみえ、享和元年(一八〇一)の「西郡廻見日記」には「永野村百石斗」と記され、幕末の村切によって独立したと思われる。
永野村
ながのむら
永野村
ながのむら
永野村
ながのむら
檮原川の支流永野川に沿った南北に狭長な村。「長野村」とも書く。東南は
江戸時代は越知面村の枝村で、元禄地払帳では「越知面村・長野村」と一括して記される。「土佐州郡志」でも越知面村内の六小村の一になっている。元禄郷帳によると当村のみの本田高五〇石。寛保郷帳には戸数四三、人口二五八、馬二〇、牛一五、猟銃一九とある。当村は土佐・伊予両国を結ぶ街道の要所として古くから重視された。明暦二年(一六五六)には村内に永野番所が設置され、中越右左衛門が初代番人となったという。
永野村
ながのむら
- 高知県:土佐市
- 永野村
元禄地払帳では総地高三八〇石余、うち本田高三二三石余・新田高五六石余。
永野村
ながのむら
永野村
ながのむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報