相模湾に囲まれた江の島にある。江島弁才天とも称し、
江島縁起(江島神社蔵)は欽明天皇一三年創祀と伝える。寿永元年(一一八二)四月五日、文覚が江の島に弁才天を勧請、源頼朝も多勢の武士を供にして江の島を訪れ(吾妻鏡)、自らも石鳥居を奉納したと伝える。「吾妻鏡」によれば建仁元年(一二〇一)六月一日将軍頼家が参詣、建保四年(一二一六)正月一五日の当社託宣には鎌倉の僧俗が群参し、三浦義村が使者に立てられ、その様子を検分し、同三月一六日には将軍実朝夫人が参詣。安貞二年(一二二八)四月二二日将軍頼経が参詣するなど鎌倉将軍家や北条氏の信仰を集めていた。「海道記」は、江島明神の前を通過する下り船は上分(奉納物)を奉ること、昔、女の姿となって山麓の寺に経を聴聞に来た神竜が、僧に竜の姿を見られ、以来僧の参詣を嫌うことなどを記している。また「太平記」巻五(時政参籠榎島事)や謡曲「鱗形」は、北条氏と江島弁才天との結びつきを説いており、信仰の一端がうかがわれる。時代は下るが万里集九「梅花無尽蔵」には「日本三処弁才天之一也」とあり、「擁護八州弥万全」と記される。
応永二三年(一四一六)千南坊紹賢以来、弘範・尊仲・賢栄・賢深・賢仲・運瑜・慶範と、鎌倉鶴岡八幡宮の供僧千南院が江島明神の別当職を世襲していた(鶴岡八幡宮寺供僧次第)。応永二九年三月一〇日の権僧正弘範譲状写(県史三)によれば、代々相伝の江島明神別当職を尊仲に譲っている。
「関八州古戦録」は、康正二年(一四五六)太田道灌が武蔵
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
神奈川県藤沢市江の島に鎮座。祭神は辺津宮(へつみや)に田寸津比売命(たぎつひめのみこと)、中津宮(なかつみや)に市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、奥津宮(おきつみや)に多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)の3女神を祀(まつ)る。さらに御窟(おんいわや)の左奥に天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)、同右奥に前記の3女神を配祀(はいし)する。社伝によると、欽明(きんめい)天皇のときの創祀と伝える。古くは江島明神(みょうじん)とよばれていたが、仏教との習合によって弁財天女とされた。江島弁天と称して海の神、幸福、財宝の神、技芸上達の神として仰がれ、厳島(いつくしま)(広島県)、竹生島(ちくぶじま)(滋賀県)とともに日本三弁天とされる。『吾妻鏡(あづまかがみ)』に、1182年(寿永1)4月5日源頼朝(よりとも)が祈願のため文覚(もんがく)をしてこの島に弁財天を勧請(かんじょう)したことがみえる。江戸時代には徳川家康の崇敬厚く、社領の寄進を受けた。旧県社。例祭は4月初の巳(み)の日、10月初の亥(い)の日。末社の八坂神社の例祭(7月14日)に行われる神輿渡御(みこしとぎょ)は有名。
[岡田荘司]
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…〈真白き富士の嶺(ね),緑の江の島〉と歌われたようにその風光が賞され,鎌倉と結んで湘南観光の中心地である。島の弁財天は近世期に日本の三弁天の一つとされて庶民の江の島参りが盛んであったが,明治初年の神仏分離により江島神社となった。江ノ島電鉄(江ノ電),小田急江ノ島線,湘南モノレール線がそれぞれ藤沢,新宿,大船から対岸の片瀬まで通じ,島へは歩道,車道の両専用橋がかかる。…
※「江島神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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