中国、明(みん)代の人。嘉興(かこう)(浙江(せっこう)省)の出身。豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略(文禄(ぶんろく)の役)の際、明の兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)(軍務大臣)石星(せきせい)に登用され、明側の外交担当となる。1592年(文禄1、中国・万暦20)、明軍敗北のあと、平壌で小西行長(ゆきなが)と会談。行長が明側に封(ほう)と貢(こう)を求めたのに対し、沈惟敬は明皇帝の意向を問うためと称して、時間稼ぎの50日停戦協定を結んだ。翌93年1月、平壌の戦いと碧蹄館(へきていかん)の戦いのあと、日明間に講和の機運がおこるや、沈惟敬は行長と画策してその周旋に乗り出した。秀吉要求の和議7か条を明皇帝に伝えず、また、行長の臣内藤如安(じょあん)を秀吉の使者に扮作(ふんさく)して、日本は明の属国となり、秀吉は日本国王に封(ほう)ぜられたいと皇帝に伝えさせた。96年9月、沈惟敬は明皇帝の副使(正使は楊方亨(ようほうきょう))となり、大坂城に明皇帝の誥勅(こうちょく)を届けた。その内容が秀吉に対し「爾(なんじ)ヲ封ジテ日本国王ト為(な)ス」というものであったため、講和は破談となり第二次朝鮮侵略(慶長(けいちょう)の役)が起こった。日明両国をだました沈惟敬は翌97年7月、朝鮮で捕らえられ、99年9月北京(ペキン)で棄市(きし)(斬首(ざんしゅ)して晒(さら)す刑)された。
[北島万次]
『柳成竜著、朴鐘鳴訳『懲毖録』(平凡社・東洋文庫)』
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(関周一)
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?~1597
「ちんいけい」とも。文禄の役後の中国明の講和使。浙江省嘉興生れ。1592年(文禄元)8月明の兵部尚書石星にとりいり,遊撃として朝鮮に赴き,小西行長と講和を画策。翌年5月謝用梓・徐一貫らと肥前国名護屋にきて和平交渉をした。94年2月明に豊臣秀吉の偽の関白降表を届け,96年(慶長元)9月冊封副使として秀吉に対面したが,秀吉の冊封に失敗。謝恩表を偽作して明帝を欺いたため,処刑された。
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…〈じょさい屋〉ともいい,〈是斎売(ぜさいうり)〉とも称された。《雍州府志(ようしゆうふし)》(1682)によると定斎薬は明(みん)の沈惟敬(しんいけい)が豊臣秀吉に霊薬の処方を献じ,秀吉からそれを賜った大坂の薬商定斎なる者がつくりはじめたといい,同書が書かれた当時すでに近江の梅木(うめのき)(現,滋賀県栗太郡栗東町)の名物になっており,〈定斎和中散(わちゆうさん)〉〈是斎和中散〉と称して数軒の家がこれを商っていた。和中散にはいろいろの種類があり,これはその一種であったらしい。…
…当時の朝鮮の正規軍は弱体であったが,慶尚道,全羅道を中心とする民衆の義兵組織や,圧倒的な明の援軍の到着によって補給路が絶たれ,渡海した兵員も各地に分散されたうえ一戦ごとに死傷者を出して手薄となっていた。この間,小西行長と沈惟敬(しんいけい)(明の遊撃将軍)との間ですすめられていた和議交渉も,戦局の推移につれて二転,三転した。日本側の条件は出陣諸将の間の思惑の相違からまとまらず,秀吉自身も,当時の国際関係(明帝国を中心とする冊封体制)についての認識に欠けるところがあった。…
※「沈惟敬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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