河合良成(読み)カワイ ヨシナリ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「河合良成」の解説

河合 良成
カワイ ヨシナリ


肩書
元・衆院議員,元・厚相,元・小松製作所社長

生年月日
明治19年5月10日

出生地
富山県福光町

学歴
東京帝大法科大学政治学科〔明治44年〕卒

経歴
農商務省に入ったが、大正7年の米騒動を機に退官。東京株式取引所(現・東証)常務理事、日華生命保険(第百生命保険)常務などを経て、帝国人絹取締役。昭和9年“帝人疑獄事件”に連座して検挙されるが、12年無罪となる。その後、満州国総務庁、企画院委員、17年東京市助役、19年運輸省船舶局長を歴任戦後は20年農林事務次官、21年第1次吉田内閣の厚相になったが、22年公職追放。実業界に入り、同年小松製作所社長に就任再建に取り組む。26年追放解除となり、27年衆院議員に当選。39年小松製作所会長となり、日経連経団連の各常務理事としても活躍した。この間、39、41年に訪中、また37、42年に訪ソし、日中・日ソ経済交流の橋渡し役をつとめた。著書に「取引所講話」「帝人心境録」「私の人生遍路」などがある。

受賞
勲二等旭日重光章〔昭和39年〕

没年月日
昭和45年5月14日

家族
長男=河合 良一(小松製作所社長) 二男=河合 二良(小松化成社長) 三男=河合 三良(国際開発センター会長) 四男=河合 良之(日鉄商事専務)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「河合良成」の解説

河合 良成
カワイ ヨシナリ

大正・昭和期の実業家,政治家 元・小松製作所社長;元・衆院議員;元・厚相。



生年
明治19(1886)年5月10日

没年
昭和45(1970)年5月14日

出生地
富山県福光町

学歴〔年〕
東京帝大法科大学政治学科〔明治44年〕卒

主な受賞名〔年〕
勲二等旭日重光章〔昭和39年〕

経歴
農商務省に入ったが、大正7年の米騒動を機に退官。東京株式取引所(現・東証)常務理事、日華生命保険(第百生命保険)常務などを経て、帝国人絹取締役。昭和9年“帝人疑獄事件”に連座して検挙されるが、12年無罪となる。その後、満州国総務庁、企画院委員、17年東京市助役、19年運輸省船舶局長を歴任。戦後は20年農林事務次官、21年第1次吉田内閣の厚相になったが、22年公職追放。実業界に入り、同年小松製作所社長に就任、再建に取り組む。26年追放解除となり、27年衆院議員に当選。39年小松製作所会長となり、日経連・経団連の各常務理事としても活躍した。この間、39、41年に訪中、また37、42年に訪ソし、日中・日ソ経済交流の橋渡し役を務めた。著書に「取引所講話」「帝人心境録」「私の人生遍路」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河合良成」の意味・わかりやすい解説

河合良成
かわいよしなり

[生]1886.5.10. 富山
[没]1970.5.14. 東京
実業家。東京帝国大学法学部卒業後農商務省に勤務したが,財界世話役の郷誠之助にすすめられて,東京証券取引所理事のほか,郷の関係する諸企業に参加。たまたま 1934年の帝人事件に連座して逮捕され,無罪となったが,一時は浪人を余儀なくされた。第2次世界大戦中は東京市助役。戦後小松製作所の経営を引受け,特需のもとに再建に成功,その後同社ブルドーザのトップメーカーとして国際的企業に成長させた。他方衆議院議員もつとめ,政界でも終始黒幕的存在として活動。また戦後の日中・日ソ経済交流にも尽力した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「河合良成」の意味・わかりやすい解説

河合良成
かわいよしなり
(1886―1970)

日本最大手の建設機械メーカーである小松製作所の経営者。富山県の酒造家の長男に生まれる。東京帝国大学法学部を卒業後、農商務省に入ったが、外米課長のときに辞任。その後、東京株式取引所常務理事、東京市助役などを歴任、帝人事件(1934)で逮捕されたが無罪。第二次世界大戦後、厚生大臣などを経て小松製作所の社長、ついで会長に就任、同社の発展に尽力した。

[四宮俊之]

『河合良成著『私の履歴書』(『私の履歴書 経済人2』所収・1980・日本経済新聞社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河合良成」の解説

河合良成 かわい-よしなり

1886-1970 大正-昭和時代の政治家,実業家。
明治19年5月10日生まれ。農商務省外米課長などをへて東京市助役,農林次官などを歴任。昭和21年第1次吉田内閣の厚相。翌年小松製作所社長となる。27年衆議院議員。のち訪ソ・訪中使節団長をつとめた。昭和45年5月14日死去。84歳。富山県出身。東京帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「河合良成」の解説

河合 良成 (かわい よしなり)

生年月日:1886年5月10日
大正時代;昭和時代の実業家;政治家。小松製作所社長;衆院議員;厚生大臣
1970年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の河合良成の言及

【小松製作所[株]】より

…31年国産第1号のトラクターを試作,43年には海軍航空基地建設用ブルドーザー(日本のブルドーザー第1号)を完成した。第2次大戦後は47年河合良成が社長に就任,鋳鋼品と機械製品(トラクター,ブルドーザー等)の並行生産で再建を図った。51年フォークリフト,モーターグレーダーの製作を開始。…

【帝人事件】より

…1927年金融恐慌で鈴木商店が破産したとき,子会社の帝人株を台湾銀行が担保としてとったが,台銀も日銀から特別融通を受けたため,その担保として同株は日銀に入れられた。その後,帝人が好調に業績をあげたので,同株を入手しようという動きが活発となり,33年5月財界グループ番町会の河合良成らが10万株を入手した。これに対し34年1月武藤山治(元鐘紡社長)経営の《時事新報》が〈番町会を暴く〉を連載して番町会の帝人乗っ取りで,中島久万吉商工相らも関与した不正があると攻撃,3月武藤の暗殺で疑惑が拡大した。…

※「河合良成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android