江戸中期の国学者。尾張(おわり)藩士河村秀世(1695―1771)の次男。字(あざな)は君律(きみのり)。葎庵(りつあん)と号す。多田義俊(ただよしとし)(1698―1750)、吉見幸和(よしみよしかず)に学び、六国史(りっこくし)を研究する。主著『書紀集解(しゅうげ)』(1785?~1806?刊)30巻20冊は、江戸時代の書紀研究の最高峰の一つで、次男益根(ますね)(1756―1819)が遺志を継いで完成した(刊本には、早世した長男殷根(しげね)(1749―1768)の名も考訂者として加えられている)。1777年(安永6)謀反を企てていると幕府に虚偽の訴状を出した者がおり、益根とともに捕らえられて江戸に送られる。翌1778年疑いが晴れ、名古屋に帰る。寛政(かんせい)4年6月24日没。70歳。墓は名古屋市東区平和公園の法輪寺墓地に現存。稿本・蔵書などは名古屋市立鶴舞(つるまい)中央図書館に所蔵。河村益根は儒学者として成功し、故実・制度に関する多くの業績を残す。号乾堂。秀根の兄秀穎(ひでかい)(1718―1783)も国学者。
[梅谷文夫 2016年5月19日]
『『書紀集解』全4巻(1936〜1940・国民精神文化研究所/復刻版・1969・臨川書店)』▽『阿部秋生著『河村秀根』(1942・三省堂/増訂復刻版・2002・同書増訂復刻版刊行会)』
(白石良夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸中期の国学者。秀世の子で,尾張藩士。字は君律,号は葎庵。藩主徳川宗春に出仕のかたわら,兄秀穎(ひでかい)とともに神道・国学を学び,《日本書紀》などの古典を研究,また稲葉通邦らと律令講読会を組織。代表的著書《書紀集解(しつかい)》は秀穎と子益根(ますね)の協力により,没後に完成。ほかに《続日本紀集解》以下の六国史の注釈,《神祇令集解》などがある。
執筆者:早川 庄八
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…降って室町時代に一条兼良は《令抄》を著したが,これも古来の注釈を摘記したものにすぎない。ついで江戸時代に入ると漢学者,国学者の双方による律令研究が盛行し,注釈書を残した者に壺井義知(つぼいよしちか)(1657‐1735),荷田春満(かだのあずままろ),稲葉通邦(いなばみちくに)(1744‐1801),河村秀穎(ひでかい),河村秀根(ひでね),薗田守良(そのだもりよし)(1785‐1840),近藤芳樹などがあるが,依然として研究の中心は解釈学におかれていた。 しかし近代史学の発達とともに,律令の研究はその解釈にとどまらず,多方面にわたって深化した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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