多田南嶺(読み)タダナンレイ

デジタル大辞泉 「多田南嶺」の意味・読み・例文・類語

ただ‐なんれい【多田南嶺】

[1698~1750]江戸中期の国学者摂津の人。名は義俊壺井義知らに音義説有職故実を学び、また、八文字屋自笑浮世草子代作もしたという。著「旧事紀偽撰考」「伊呂波声母伝」など。

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精選版 日本国語大辞典 「多田南嶺」の意味・読み・例文・類語

ただ‐なんれい【多田南嶺】

  1. 江戸中期の神道家・故実家・浮世草子作者。本姓源、名は義俊、字は公実、通称兵部、別号春塘・春斎など。大坂に生まれ、若くして上洛、神道を学び、舌耕生活に入る。また、壺井義知に故実を学ぶ。数多くの浮世草子にも筆を染め八文字屋自笑の代作をしたと伝えられ、「鎌倉諸芸袖日記」「世間母親容気」などがその作と推定される。著作は他に「旧事紀偽撰考」「南嶺子」など。元祿一一~寛延三年(一六九八‐一七五〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「多田南嶺」の意味・わかりやすい解説

多田南嶺
ただなんれい
(1698―1750)

江戸中期の故実、神道、兵学者、浮世草子作者。本姓源、名は義俊、字(あざな)は公実(こうじつ)、通称兵部、別号春塘(しゅんとう)、男鈴。大坂生まれ。京都の壺井義知(つぼいよしちか)(1657―1735)などに学び、故実、神道、兵学を京都、大坂に教え、諸方に講説し、諸藩にも講学。その講説は、聴講の門人の筆録による写本として伝わるものが多い。江島其磧(えじまきせき)没後、八文字屋(はちもんじや)の影の作者として、八文字自笑(じしょう)などの名の下に浮世草子を多く執筆した。1739年(元文4)の『武遊双級巴(ぶゆうふたつどもえ)』に始まり、『鎌倉諸芸袖日記(そでにっき)』(1743)を代表作とし、『勧進能舞台桜(かんじんのうぶたいざくら)』(1746)、『世間母親容気(かたぎ)』(1752)など風刺のきいた、技巧色の強い作で、後期浮世草子を代表する存在である。

[長谷川強 2017年10月19日]

『中村幸彦著『南嶺の小説』(『近世作家研究』所収・1961・三一書房)』

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朝日日本歴史人物事典 「多田南嶺」の解説

多田南嶺

没年:寛延3.9.12(1750.10.11)
生年元禄11(1698)
江戸中期の神道家,国学者,故実家,浮世草子作者。姓は初め多田,のち桂を称す。名は義俊が一般的だが,ほかに義寛,秀樹。通称は兵部,将監。摂津国多田(兵庫県川西市)の出といい,早く吉田,垂加,伊勢などの諸神道を学んだ。神道は特に中川自卜から垂加流を受け,故実は壺井義知に従った。神道では『中臣祓古義』『神明憑談』,故実では『職原鈔弁講』,歴史では『旧事記偽書明証考』,語学では『以呂波声母伝』,歌学では『和歌物語』などの著があり,随筆『ぬなはの草紙』『南嶺子』『秋斎間語』『南嶺遺稿』などもその学問の成果である。文献考証をもっとも得意とし,特に『旧事記偽書明証考』は,当時の神道界や歴史学界ではほとんど聖典視されていた『旧事本紀』が偽選であることを考証したものであり,南嶺を一躍有名にした。しかしそのために壺井義知から破門されることとなった。非合理的だった神道学説に,考証という合理的方法を導入したことにおいて,賀茂真淵や本居宣長などの復古神道の土壌を作ったともいえよう。晩年,生活のために八文字屋に請われて浮世草子を執筆したが,知的要素を加味したその作風は,のちの談義本読本先駆とも評価されている。<参考文献>平重道『近世日本思想史研究』,中村幸彦「多田南嶺の小説」(『中村幸彦著述集』6巻)

(白石良夫)

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改訂新版 世界大百科事典 「多田南嶺」の意味・わかりやすい解説

多田南嶺 (ただなんれい)
生没年:1698-1750(元禄11-寛延3)

江戸中期の国学者。摂津の人。別姓は桂,通称は将監,兵部。南嶺は号。名は義俊,秀樹(ひでうえ)。秋斎とも号した。壺井義知に有職故実を学ぶかたわら,芝山重豊や中山兼親らの公卿に近侍して研鑽を重ねた。一家を成してのちは,尾張,江戸,伊勢等へ赴いて講筵を張り,晩年は京都に住した。その学問は多岐にわたり,博識である一面,実証を欠いた虚説もすくなくない。また八文字屋の浮世草子を代作し,なかでも《鎌倉諸芸袖日記》は著名。ほかに《職原抄弁書》《旧事記偽書明証考》《神明憑談》《故実類聚抄》《ぬなはの草紙》など。
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百科事典マイペディア 「多田南嶺」の意味・わかりやすい解説

多田南嶺【ただなんれい】

江戸中期の国学者,浮世草子作者。名は義俊。別号春塘,男鈴,秋斎。大坂の人。京都に出て,神道,故実,兵学に通じる。八文字屋本を著作。ただしその多くは八文字屋自笑,其笑らの名義となっており,自作のものは明確でない。代表作は《世間母親容気》《武遊双級巴》《鎌倉諸芸袖日記》。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多田南嶺」の意味・わかりやすい解説

多田南嶺
ただなんれい

[生]元禄11(1698).大坂
[没]寛延3(1750).9.12. 京都
江戸時代中期の国学者,浮世草子作者。名は義俊,通称は兵部,別名は桂秋斎秀樹。故実,神道,兵学に通じ,著書も多い。一方『武遊双級巴 (ふたつどもえ) 』 (1739) をはじめとして浮世草子にも手を染めたが,南圭梅嶺翁の名による『世間母親容気 (かたぎ) 』 (25) 以外はすべて八文字屋自笑や其笑の名で発表。主著『女非人綴錦 (つづれのにしき) 』 (42) ,『鎌倉諸芸袖日記』 (43) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「多田南嶺」の解説

多田南嶺 ただ-なんれい

1698-1750 江戸時代中期の神道家,有職(ゆうそく)家。
元禄(げんろく)11年生まれ。摂津多田(兵庫県)の人。京都で中川自卜に垂加神道を,壺井義知(よしちか)に故実をまなぶ。おおくの著書をのこし,晩年は浮世草子も執筆した。寛延3年9月12日死去。53歳。名は義俊,政仲。字(あざな)は公実。別号に春塘,秋斎など。著作に「旧事記偽書明証考」など。

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世界大百科事典(旧版)内の多田南嶺の言及

【古今役者大全】より

…歌舞伎の解説書。中心となった作者は多田南嶺。撰者として八文字屋其笑,八文字屋瑞笑の名が記される。…

※「多田南嶺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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