河野一郎(読み)コウノイチロウ

デジタル大辞泉 「河野一郎」の意味・読み・例文・類語

こうの‐いちろう〔かうのイチラウ〕【河野一郎】

[1898~1965]政治家神奈川の生まれ。新聞記者を経て政友会代議士となり、第二次大戦後、自由党結成に参加。農林・建設・国務の各大臣を歴任し、日ソ国交回復にも尽力。自由民主党の党人派実力者。

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精選版 日本国語大辞典 「河野一郎」の意味・読み・例文・類語

こうの‐いちろう【河野一郎】

  1. 政治家。神奈川県出身。早稲田大学政治経済学部卒。朝日新聞記者を経て昭和七年(一九三二衆議院議員となり、自由党、民主党、のち自由民主党の党人派実力者として活躍。鳩山、岸、池田、佐藤各内閣の農相、建設相国務相などを歴任。明治三一~昭和四〇年(一八九八‐一九六五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「河野一郎」の意味・わかりやすい解説

河野一郎
こうのいちろう
(1898―1965)

政治家。神奈川県生まれ。1923年(大正12)早稲田(わせだ)大学政経学部卒業後、朝日新聞記者。1932年(昭和7)衆議院議員(神奈川県)、以来連続5回当選。政友会鳩山一郎(はとやまいちろう)派に属し、第二次世界大戦中は非翼賛議員。1945年(昭和20)終戦後、鳩山に従って自由党結成に参加し、初代幹事長就任。1946年公職追放を受け1951年解除。三木武吉(みきぶきち)らと鳩山政権樹立に向けて活動し、1953年分党派自由党を結成。その後日本自由党の幹事長を経て1954年日本民主党結成に参加。同年第一次鳩山内閣の農相に就任。1955年の保守合同で自由民主党に所属、1956年全権委員として日ソ国交回復実現に尽力した。以後、経済企画庁長官、農相、建設相、オリンピック担当国務相を歴任。実力ある党人派代表であり、総理総裁の座をねらっていたが、大動脈瘤(りゅう)で急死河野謙三は弟。次男洋平(1937― )は衆議院議長を務めた。

[荒 敬]

『河野一郎著『今だから話そう』(1958・春陽堂書店)』『『河野一郎自伝』(1965・徳間書店)』『河野一郎著『日本の将来』(1965・恒文社)』『伝記刊行委員会編『河野先生を偲ぶ』(1966・春秋会)』『小枝義人著・河野洋平監修『党人河野一郎――最後の十年』(2010・春風社)』

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「河野一郎」の解説

河野 一郎
コウノ イチロウ


肩書
農相,建設相,衆院議員(自民党),自由党幹事長

生年月日
明治31年6月2日

出生地
神奈川県小田原市

学歴
早稲田大学政治経済学科〔大正12年〕卒

経歴
朝日新聞記者、農相秘書官を経て、昭和7年衆院議員(政友会)に初当選。以来、当選11回。戦時中は非翼賛議員として興亜議員連盟に参加、反東条の立場をとった。戦後、自由党結成に参加して初代幹事長となるが公職追放を受け、一時日魯漁業社長をつとめる。26年解除後、鳩山擁立派として吉田首相退陣を要求し、28年衆院解散に際し分党派自由党を結成、選挙後の28年末分党派を解体し、三木武吉らと日本自由党を結成、幹事長となる。29年日本民主党に合流し民主自由党総務、同年第1次鳩山内閣の農相に就任。日ソ国交回復交渉及び漁業交渉に尽力した。のち、岸内閣の経企庁長官、池田内閣の建設相、東京オリンピック担当相、自由民主党総務会長など要職を歴任し、生粋の党人派実力者として活動した。

没年月日
昭和40年7月8日

家族
二男=河野 洋平(衆院議員) 弟=河野 謙三(参院議長) 孫=河野 太郎(衆院議員)

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20世紀日本人名事典 「河野一郎」の解説

河野 一郎
コウノ イチロウ

昭和期の政治家 農相;建設相;衆院議員(自民党);自由党幹事長。



生年
明治31(1898)年6月2日

没年
昭和40(1965)年7月8日

出生地
神奈川県小田原市

学歴〔年〕
早稲田大学政治経済学科〔大正12年〕卒

経歴
朝日新聞記者、農相秘書官を経て、昭和7年衆院議員(政友会)に初当選。以来、当選11回。戦時中は非翼賛議員として興亜議員連盟に参加、反東条の立場をとった。戦後、自由党結成に参加して初代幹事長となるが公職追放を受け、一時日魯漁業社長をつとめる。26年解除後、鳩山擁立派として吉田首相退陣を要求し、28年衆院解散に際し分党派自由党を結成、選挙後の28年末分党派を解体し、三木武吉らと日本自由党を結成、幹事長となる。29年日本民主党に合流し民主自由党総務、同年第1次鳩山内閣の農相に就任。日ソ国交回復交渉及び漁業交渉に尽力した。のち、岸内閣の経企庁長官、池田内閣の建設相、東京オリンピック担当相、自由民主党総務会長など要職を歴任し、生粋の党人派実力者として活動した。

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百科事典マイペディア 「河野一郎」の意味・わかりやすい解説

河野一郎【こうのいちろう】

政治家。神奈川県出身。1923年早稲田大学卒,朝日新聞社入社。1932年衆議院議員となり,政友会に所属。1945年鳩山一郎を総裁とする日本自由党創立に参加,幹事長となるが,翌年鳩山とともに公職を追放された。1951年追放解除後,鳩山政権樹立を目指して吉田茂と対立,激しい党内抗争を繰り広げた。1954年第1次鳩山内閣の農相として初入閣,1956年には日ソ国交回復を成功させた。その後,経企庁長官・農相・建設相などを歴任,池田勇人(はやと)後の総裁指名を期待したが,政権担当の機会を得ぬまま死去。謙三(元参議院議長)は弟,洋平(衆議院議員)は次男。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河野一郎」の意味・わかりやすい解説

河野一郎
こうのいちろう

[生]1898.6.2. 神奈川
[没]1965.7.8. 東京
政治家。 1923年早稲田大学卒業。『朝日新聞』記者となる。 32年衆議院議員初当選。 45年日本自由党結成に参画。同幹事長となったが,46年公職追放。 51年追放を解除され,吉田内閣打倒,鳩山政権実現に専念した。 54年鳩山内閣の農相となり,日ソ漁業交渉と日ソ復交に活躍。「河野執権」と称される実権者となった。その後も党と内閣の要職を歴任し,64年,池田首相退陣後の自由民主党総裁を佐藤栄作と争ったが敗れ,半年後急死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河野一郎」の解説

河野一郎(1) こうの-いちろう

1898-1965 昭和時代の政治家。
明治31年6月2日生まれ。河野洋平の父。東京朝日新聞記者をへて昭和7年衆議院議員(当選11回,自民党)。29年日本民主党結成にくわわって第1次鳩山内閣の農相となり,31年ソ連との国交回復を実現させた。のち岸,池田,佐藤各内閣の農相,建設相などを歴任。昭和40年7月8日死去。67歳。神奈川県出身。早大卒。著作に「今だから話そう」など。
【格言など】こんなことで死んでたまるか(最期の言葉)

河野一郎(2) こうの-いちろう

1930- 昭和後期-平成時代の英文学者。
昭和5年1月6日生まれ。45年母校東京外大の教授,のちフェリス女学院大教授。カポーティ「遠い声遠い部屋」,シリトー「長距離走者の孤独」など現代英米小説の翻訳が多数ある。大阪出身。著作に「翻訳上達法」。

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367日誕生日大事典 「河野一郎」の解説

河野 一郎 (こうの いちろう)

生年月日:1898年6月2日
昭和時代の政治家。建設相;衆議院議員
1965年没

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