寺伝によれば聖徳太子が如意輪観音の教示により五重塔を建て、仏舎利を納め法観寺と号したという。塔の周囲より出土した古瓦の様式が飛鳥期と推定されるので、当寺の創建時期については肯定される。この創建には古くから
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京都市東山区八坂上町,北は八坂神社,南は清水寺のほぼ中間に位置する臨済宗建仁寺派の寺。霊応山と号し,八坂塔と通称する。飛鳥時代の創建で,古くは八坂寺と称した。《延喜式》では盂蘭盆供養料を給される七寺の一つとされ,官寺として栄えたが,1179年(治承3)祇園大衆と清水寺僧徒との合戦の兵火により焼失。91年(建久2)源頼朝の援助を受けて再建されたものの,寺勢は漸次衰えた。1240年(仁治1)当寺中興の祖とされる建仁寺第8世済翁証救が入寺して禅刹となり,現寺号に改められた。その後も炎上,再建をくり返し,現在の五重塔(重文)は,1440年(永享12)足利義教の再建であるが,創建以来の古制を保つという。寺領では,1338年(延元3・暦応1)当寺の塔を山城国利生塔に定めたおり,足利尊氏・直義兄弟が播磨国印南(いなみ)荘地頭職を寄進したことなどが知られる。寺宝の紙本著色《八坂塔絵図》(重文)は室町後期の作。
執筆者:杉橋 隆夫
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京都市東山区八坂上(やさかかみ)町にある臨済(りんざい)宗建仁(けんにん)寺派の寺。霊応山(れいおうざん)と号し、通称を八坂塔(やさかのとう)という。本尊は五智如来(ごちにょらい)(大日(だいにち)、釈迦(しゃか)、阿弥陀(あみだ)、宝生(ほうしょう)、阿閦(あしゅく))。聖徳太子の創建と伝えられ、創建には、八坂郷を拠点としていた渡来系豪族の八坂造(やさかのみやつこ)がかかわったという。『延喜式(えんぎしき)』盂蘭盆(うらぼん)供養料七か寺(当寺のほか、東寺(とうじ)、西寺(さいじ)、佐比寺、野寺、出雲(いずも)寺、聖神(しょうしん)寺)の一つであった。1179年(治承3)兵火にかかり、1192年(建久3)源頼朝(よりとも)により再興される。1240年(仁治1)建仁寺第8世済翁証救(さいおうしょうきゅう)が入住し、真言(しんごん)宗を改めて、以後は禅刹(ぜんさつ)として栄えた。しかし応仁(おうにん)の乱ののちは急速に衰微し、現在では五重塔(国の重要文化財)、太子堂、薬師堂だけがあるにすぎない。五重塔は1440年(永享12)の建造で、飛鳥(あすか)時代の礎石の上に建ち、世に八坂塔と称し、東山の象徴となっている。寺宝の紙本着色八坂塔絵図は国の重要文化財。
[平井俊榮]
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