デジタル大辞泉
「土佐光信」の意味・読み・例文・類語
とさ‐みつのぶ【土佐光信】
[?~1522ころ]室町後期の画家。宮廷の絵所預、幕府の御用絵師をも務め、将監さらには刑部大輔に任じられ、画家として最高の地位をきわめて土佐派の画系を確立。絵巻・肖像画・仏画から工芸品の下絵まで幅広く活躍。作「清水寺縁起絵巻」など。
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とさ‐みつのぶ【土佐光信】
- 室町中期の大和絵画家。文明元~大永三年(一四六九‐一五二三)の間、宮廷の絵所預の職にあり、また、室町幕府の大和絵関係の御用もつとめる。題材・技法の領域を拡げ、大和絵の形式を豊かにし、諸階級に適応する絵画に改革して、土佐派の地位を確立。代表作「清水寺縁起絵巻」。生没年未詳。
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土佐光信
生年:生没年不詳
室町中・後期の土佐派の代表的な絵師。右近将監,左近将監,刑部少輔,刑部大輔を歴任。絵師として最高の従四位下を受け,所領は5カ所におよんだ。土佐家系図は大永5(1525)年92歳で没したとするが,大永1年を期に記録から消え,同時に次代の光茂がそのあとを継いでいることから没年もこのころと推定される。応仁の乱のさなか文明1(1469)年に宮廷絵所預(長官)となり半世紀にわたりこれを独占した。さらに室町幕府の御抱絵師的な役割も果たしており,寺社,地方大名などにも関連した広範な画事に従事した。現存作も多く,絵巻作品には「槻峯寺縁起」(1495,フーリア美術館蔵),北野天満宮「北野天神縁起」(1503),「清水寺縁起」(1517,東京国立博物館蔵)などの本格的なものから,「地蔵堂草子」(個人蔵),「硯破草子」(1495,個人蔵)などの小絵の作例がある。画風は水墨画法を導入して,これまでの土佐派のやまと絵画風を一変させた。総じて人物は平俗で,描線は筆勢があるがやや荒削り,彩色は薄塗りで渋い色調が目立ち,瀟洒で漠とした寂寥感がある。肖像画では像主の日常の自然な面持ちをとらえることに卓越した技量を示し,「三条西実隆像」(1501,個人蔵),「桃井直詮像」(東京国立博物館蔵),「後円融天皇像」(1492,雲竜院蔵)などがある。その他,宮中関係の仏画として「十王図」(1389,京都浄福寺蔵)をはじめ調度品図様,扇面,冊子本表紙絵など制作は多岐にわたるが,大画面の屏風作品にも才腕を振るったと推定され,「松図屏風」(東京国立博物館蔵)などがその作と伝承されている。記録では新種の京中名所の屏風を描く(1506)など風俗画の図様創案の方面にも功績があった。画事のみではなく,三条西実隆をはじめ,甘露寺親長,中御門宣胤ら当時の文化人たちと交わり,晩年は連歌会にしばしば顔をみせ頭役なども務めている。<参考文献>谷信一『室町時代美術史論』,吉田友之「土佐光信」(集英社『日本美術絵画全集』5),宮島新一『土佐光信と土佐派の系譜』
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土佐光信 (とさみつのぶ)
室町時代の画家。生没年不詳。1469年(文明1)に宮廷の絵所預となり,1521年(大永1)ころに没した。この間,1491年(延徳3)前後に土佐広周(ひろかね)の跡目を引き継いで室町幕府の絵師職をも兼ね,96年(明応5)に刑部大輔,ついで従四位下に叙せられ,多くの所領を得て土佐派の栄位を確定した。晩年には連歌を介して公家階層と親交を結んだことも知られる。当時の貴紳たちは光信を肖像画家として評価し,かつ数多くの絵巻作者として記録した。《後円融院画像》(京都雲竜院,1492),《三条西実隆画稿》(1501)や《星光寺縁起絵巻》(東京国立博物館,1487),《北野天神縁起絵巻》(京都北野天満宮,1503),《清水寺縁起絵巻》(東京国立博物館,1517)などの確証ある遺作がこのことを例証する。さらに扇面画,仏画などを加えた広い作画領域で,光信は土佐派の細密な絵画様式の伝統を受け継いだ。とりわけ《十王図》(京都浄福寺,1489)は14世紀中期に絵所預であった中御門行光(なかみかどゆきみつ)の作品を伝写した遺例で,行光から光信への系脈を示唆する。他に光信の画歴として,《庚申図》にみる水墨画法の摂取も無視できないが,ことに障屛画家としての活動が注目される。1506年(永正3)に制作したとされる(《実隆公記》)《京中図屛風》一双の実態,土佐光起が光信作とする金地《松図屛風》(東京国立博物館)の筆者の帰属,足利義政の造営した東山殿障壁画制作への参加の可能性などが,後継者土佐光茂(みつもち)の画業や近世初期金碧画の動向とも関連して,今後さらに検討されよう。
執筆者:吉田 友之
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土佐光信【とさみつのぶ】
室町時代の土佐派の画家。父は土佐光弘と推定され,1469年以前に光弘を継いで宮廷の絵所預(えどころあずかり)職についた。以後官位昇進を重ね,刑部大輔,従4位下となって,画家として最高の官職を占め,幕府の御用絵師も務めて,土佐家の地位を確立。絵巻,肖像画,仏画が残るほか,水墨画の遺品も近年発見されるなど,画域は広い。作品は《星光寺縁起絵巻》《清水寺縁起絵巻》《後円融院像》《十王図》など。
→関連項目石山寺縁起絵巻|幸阿弥家
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土佐光信
とさみつのぶ
生没年未詳。室町後期の大和絵(やまとえ)画家。土佐光弘(みつひろ)の子と推定される。1469年(文明1)から1522年(大永2)ごろに没するまで宮廷絵所預(えどころあずかり)を務め、官位も刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)従(じゅ)四位下にまで上り、多くの所領を有して土佐派の栄位を確立した。その長い活躍期間に、宮廷のみならず公家(くげ)や幕府をはじめとする武家、寺社のために盛んに作画活動を行っているが、それはまた当時の大和絵制作の盛行をよく示すものである。制作範囲は幅広く、屏風(びょうぶ)、絵巻、肖像画、仏画をはじめ工芸品の下絵にまで及ぶ。光信は平安時代以来培われてきた大和絵の正統的な継承者であったが、漢画や中国画の画風も取り入れようとしたことが遺品から知られる。現存する作例には『狐(きつね)草子絵』『北野天神縁起』(文亀本。京都・北野天満宮)、『清水寺縁起』(東京国立博物館)などがあげられる。
[加藤悦子]
『吉田友之解説『日本美術絵画全集5 土佐光信』(1981・集英社)』
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土佐光信
とさみつのぶ
[生]?
[没]永正18(1521)/大永2(1522)頃
室町時代中期の画家。宮廷絵所預をつとめた中務丞藤原光弘の子。文明1 (1469) 年 10月宮廷絵所預に補せられ,のちに左近将監 (しょうげん) から画家としては最高位の刑部大輔従四位下に昇進,また叔父土佐広周 (ひろちか) の没後は室町幕府御用絵師をも兼任して,宮廷,公家,武家,寺社など各方面からの仕事に応じ,みずから分家の「土佐」の名字を称して土佐派の地位を確立した。伝統的なやまと絵の技法に漢画系の線描法を取入れ,仏画,肖像画,風俗画,絵巻,絵馬,屏風など多様な作品を制作して,土佐派の全盛時代を築いた。主要作品『星光寺縁起絵巻』 (87,東京国立博物館) ,『北野天神縁起絵巻』 (1503,北野天満宮) ,『清水寺縁起絵巻』 (17,東京国立博物館) ,『十王図』 (1489/90,浄福寺) ほか。
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土佐光信 とさ-みつのぶ
?-? 室町-戦国時代の画家。
土佐光弘(みつひろ)の子。文明元年(1469)絵所預(えどころあずかり),のち室町幕府の絵師職にもつく。従四位下,刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)にすすみ,土佐派の地位を確立。伝統的な大和絵に水墨画の画法をとりいれ,絵巻,肖像画,仏画,扇面画など多岐にわたる作品をのこした。大永(たいえい)2年(1522),5年(1525)死去説がある。代表作に「清水寺縁起絵巻」「北野天神縁起絵巻」「桃井直詮(なおあき)像」など。
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土佐光信
とさみつのぶ
生没年不詳。室町中期~戦国期の絵師。8代将軍足利義政の御教書によると,1469年(文明元)絵所預に補任された。96年(明応5)には刑部大輔に任じる旨の口宣案(くぜんあん)がだされている。「槻峰寺建立修行縁起絵巻」「北野天神縁起」(1503),「清水寺縁起絵巻」(1517)などの作品が現存。これらの絵巻の画面は,みずみずしい色彩と,のびのびとした筆遣いを特色とする。京中を描いた屏風や仏画・肖像画なども手がけた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
土佐光信
とさみつのぶ
生没年不詳
室町中期の大和絵画家
朝廷・室町幕府の絵所預 (えどころあずかり) となり,水墨画に圧倒されていた大和絵の中で土佐派の地位を確立した。代表作『清水寺縁起絵巻』など。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の土佐光信の言及
【狐の草子】より
…7年間の楽しみは,7日間の出来事であった。冒頭に欠損のあるこの絵巻は,上半分に詞を記し,下半分に絵をあてた形式で,〈狐絵〉(《言継卿記》),〈狐草子〉(《考古画譜》)と呼ばれ,原本は土佐光信の絵,現存の絵巻はいずれもこの系統の模本である。【徳江 元正】。…
【土佐派】より
…他方,行秀の工房は《親長卿記》文正1年(1466)6月条に記す〈春日絵所〉へと系譜する。この春日の工房の主宰者は[土佐光信]であろう。光信は1469年(文明1)に絵所預となったとき,すでに左近将監であった。…
※「土佐光信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」