コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

洞院実世 とういんさねよ

6件 の用語解説(洞院実世の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

洞院実世
とういんさねよ

[生]延慶1(1308)
[没]正平13=延文3(1358).8.19. 吉野
南北朝時代の南朝の廷臣。公賢の子,兄実夏の猶子。嘉暦3 (1328) 年参議となり,のち権中納言左衛門督検非違使別当に進む。後醍醐天皇の信任厚く,討幕計画に加わったため,元弘の乱では捕えられ,解官されたが,建武中興が成ると復官し,雑訴決断所の職員ともなり新政府で活躍した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

洞院実世 とういん-さねよ

1308-1358 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
延慶(えんきょう)元年生まれ。洞院公賢(きんかた)の子。後醍醐(ごだいご)天皇の討幕計画(元弘(げんこう)の乱)に参加,六波羅探題に捕らえられ免官となるが,建武(けんむ)新政府の成立で権(ごんの)中納言に復職。南北朝分裂後は南朝につかえ,新田義貞(よしさだ)軍にくわわる。のち吉野で後村上天皇を補佐,従一位,左大臣にのぼった。延文3=正平(しょうへい)13年8月19日死去。51歳。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

洞院実世

没年:延文3/正平13.8.19(1358.9.22)
生年:延慶1(1308)
鎌倉・南北朝時代の公卿。父は洞院公賢,母は家女房。正和2(1313)年叙爵,嘉暦3(1328)年に参議,元徳2(1330)年には権中納言,左大弁,検非違使別当となる。元弘1(1331)年に後醍醐天皇の討幕計画に加わって逮捕され父に預けられるが,同3年の建武政権の成立により復職,恩賞方,記録所の上卿を務め,建武3/延元1(1336)年に正二位となる。北朝が成立すると新田義貞と共に越前国(福井県)金崎城にたてこもり,暦応2/延元4年には吉野の後村上天皇の南朝で重要な任につき,南朝において従一位,左大臣に叙せられた。

(伊東正子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

とういんさねよ【洞院実世】

1308‐58(延慶1‐正平13∥延文3)
鎌倉末~南北朝期の公卿。太政大臣公賢の子。後醍醐天皇の信任を得て1330年(元徳2)に権中納言,左右衛門督,検非違使別当と重職に任ぜられた。討幕の企てに関与したため31年(元弘1)六波羅探題に捕らえられ,官職を削られた上で翌年父公賢に身柄を預けられた。天皇が復帰すると本職に復し,建武政権では34年(建武1)春宮権大夫,大学頭に任ぜられ,恩賞方の頭人,雑訴決断所の寄人(よりうど)も務めた。36年(延元1∥建武3)には勲功の賞として正二位に叙せられた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

とういんさねよ【洞院実世】

1308~1359) 南北朝時代の公家。公賢の子。後醍醐天皇に仕える。南北朝分裂後は新田義貞の軍に加わり、越前金崎城・杣山そまやま城を転戦。のち吉野にあって、南朝の重臣として従一位左大臣。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

洞院実世
とういんさねよ
(1308―1358)

南北朝時代の公卿(くぎょう)。公賢(きんかた)の子。母は家女房(いえのにょうぼう)。後醍醐(ごだいご)天皇の信任を得て、1328年(嘉暦3)参議となる。正中(しょうちゅう)の変(1324)以来天皇の討幕計画に参画していたため、元弘(げんこう)の変(1331)では六波羅(ろくはら)に捕らえられ、父公賢に預けられた。建武(けんむ)政権下、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)の寄人(よりゅうど)に任ぜられた。35年(建武2)足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武政権に反したため、後醍醐天皇方として足利方と戦った。一時勝利を得たが、ついに吉野に逃れ、後醍醐天皇を奉ずる南朝の重臣として、北畠親房(きたばたけちかふさ)とともに南朝勢力の回復に努めた。従(じゅ)一位左大臣の高位に昇る。51年(正平6・観応2)南朝による天下一統を成功させたが、まもなく分裂し、以後南北両朝による京都争奪戦が続けられた。正平(しょうへい)13年8月19日、父に先だって吉野で没した。[田辺久子]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

洞院実世の関連キーワード洞院公連世尊寺伊俊園太暦洞院公賢洞院公定洞院三条局(4)尊玄洞院公守洞院実夏

今日のキーワード

災害派遣

天災地変その他の災害に際して,人命または財産の保護のために行なわれる自衛隊の派遣。災害出動ともいう。都道府県知事などの要請に基づいて,防衛大臣が派遣することを原則とするが,特に緊急を要する場合,要請を...

続きを読む

コトバンク for iPhone