津山城跡(読み)つやまじようあと

日本歴史地名大系 「津山城跡」の解説

津山城跡
つやまじようあと

[現在地名]津山市山下

津山藩主森氏ならびに松平氏の居城。国指定史跡で、指定面積九万一一一〇平方メートル。

慶長八年(一六〇三)美作国一八万六千五〇〇石の国主となった森忠政院庄いんのしよう村に入り、築城地の選定に当たった。吉井川に面した西の院庄村、東の日上ひかみ村などが候補地として検討されたが、最終的には津山盆地の中央部に当たるかく山に決定した。忠政は最初院庄村の古城跡に築城の予定であったが、普請の途中、重臣の井戸宇右衛門兄弟と名古(護)屋九右衛門(山三郎)との間に刃傷事件が起こり、そのために築城地を鶴山に変更したといわれている。しかし「院庄構ハ、忠政君津山城御取立御普請之内、腰懸城也」(森家先代実録)とあるように仮の施設であった。鶴山は小篠こざさ山とも称され、山の東は丹後たんご山丘陵との間に宮川が急峻な谷を形成し、南から西にかけて吉井川に沿って平坦部をなし、西には鶴山から小田中おだなかの丘陵が延び、北は低湿地をなしていた。また付近には中世の市場である戸川とがわ町・林田はいだ町が形成され、毎月一日・一五日に市が開かれていた(同書)

鶴山は室町時代に美作守護山名氏の一族山名忠政が築城したところと伝えられ、慶長初年には八幡宮や日蓮宗妙法みようほう(現妙法寺)があり、南麓には屋後やご町などがあった。森忠政は鶴山を津山と改名し、慶長九年から本格的に築城を開始した。屋後町を北西の城下近郊に移して屋後(八子)村とし、八幡宮を八出やいでのぞき山に、また城の北西にあたる山北やまきた村に、さらに屋後村(八子)へ移し、妙法院は三輪十郎左衛門屋敷通(南新座)に移した。忠政は最初、「北の門ノ前ニ小丸ヲ付、艮のから堀ヲ東宮川へ落し刎橋ヲ懸、又丹後山と城山との間ヲつき切、沼・上河原辺迄湖水ニ可被成」(森家先代実録)という計画であったが、地質の関係で実現しなかった。同年一一月、手斧始めとして津山鎮守の社、氏神徳守とくもり大明神宮を建立した。その後大工の保田惣右衛門を細川忠興領豊前小倉こくら(現福岡県北九州市)に派遣し、築城中の小倉城の図を参考にした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「津山城跡」の解説

つやまじょうあと【津山城跡】


岡山県津山市山下にある城跡。美作(みまさか)一国を領して津山に入封した森忠政(ただまさ)が、鶴山(つるやま)に築城した平山城で、鶴山にはすでに山名忠政が城を構えており、山上に鶴山八幡宮、南の山腹に日蓮宗妙法院、西の山腹に八子(やご)の集落があった。これらを周辺に移転し、12年かけて1616年(元和2)に津山城は完成した。城は自然地形を巧みに生かしながら、土木工事によってさらに要害堅固な城となった。天守は5層で石垣も含めて高さ26m余、壁は漆喰(しっくい)塗りの白壁、破風(はふ)飾りなしのすっきりとした外観で、その四周は石垣と櫓(やぐら)・塀で厳重に固められていた。城下町も徐々に整備され、森家4代・松平家9代にわたる歴代津山藩主の居城となったが、明治の廃藩置県・廃城令で5層の天守閣などすべての建物が取り除かれた。1900年(明治33)に鶴山(かくざん)公園となり、補修・整備されて現在にいたっている。建物は残っていないが、備中櫓が復元され、石垣は往時の面影をよくとどめており、縄張りの巧妙さと築城最盛期の高度な土木技術を今に伝える。1963年(昭和38)に国の史跡に指定された。JR姫新線ほか津山駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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