津軽氏(読み)つがるうじ

改訂新版 世界大百科事典 「津軽氏」の意味・わかりやすい解説

津軽氏 (つがるうじ)

陸奥国津軽郡(現,青森県)を支配した大名家で,弘前津軽氏と同氏から分家した黒石津軽氏がある。津軽氏の先祖に関しては,大浦氏を祖とする系図や,久慈氏を祖とするもの,十三藤原氏を祖とする各系図があって,いずれも伝承の域を出ず明確にしえない部分が多い。《津軽一統志》付巻の〈津軽屋形様御先祖次第〉では,南部氏の一族で下久慈にいた金沢右京亮家光を祖としており,以下家信,光信,盛信,政信,為則,為信と続く。津軽文書に金沢家光・家信の右京亮口宣案が残されていて実在が確認されているので,《津軽一統志》所載の系譜がより信頼がおけるであろう。初代弘前藩津軽為信は,1590年(天正18)末までは南部右京亮を称していたのは確実であり,91年6月ごろから津軽を称した(伊達家文書)。《津軽一統志》に津軽と南部両家は一体とあるので,本来津軽氏は源氏である。しかし1600年(慶長5)為信の従五位下右京大夫補任の口宣案は藤原を称している。為信の死後,三男信枚(のぶひら)の家系が嫡流として津軽氏を継承した。第12代藩主津軽承昭(つぐあきら)は,維新の功によって伯爵。信枚の子信英(のぶふさ)にはじまる黒石津軽氏は1809年(文化6)大名に列した。維新後,子爵
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「津軽氏」の意味・わかりやすい解説

津軽氏
つがるうじ

東北地方の最北端陸奥国(むつのくに)津軽地方に居住した豪族。弘前(ひろさき)藩主。初代津軽為信(ためのぶ)は戦国大名の戦略家として名高いが、近衛尚通(このえひさみち)の庶子として初め大浦姓を称し、のち津軽統一を行って津軽氏の祖となった。一説堀越(ほりこし)城主武田紀伊守守信(たけだきいのかみもりのぶ)の子とも伝える。1590年(天正18)小田原参陣により豊臣秀吉(とよとみひでよし)より4万5000石を安堵(あんど)され、関ヶ原の戦い以後は弘前城を居城とする表高4万7000石を領有する外様大名(とざまだいみょう)。1808年(文化5)には北方蝦夷地(えぞち)警備の功労として10万石に加増され、12代承昭(つぐあきら)まで約300年間陸奥国の雄として栄えた。分家に黒石の津軽家がある。

[浅井潤子]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津軽氏」の意味・わかりやすい解説

津軽氏
つがるうじ

陸奥国津軽地方の豪族。弘前藩主。清和源氏の出という。初め大浦氏を称し,南部氏に従い,室町時代,出羽国仙北郡金沢城に拠った。政信のとき,近衛尚通の猶子となったという。戦国時代の為信のとき,南部氏にそむいて津軽地方を押領し,津軽氏を称して堀越に住んだ。豊臣秀吉の小田原征伐のとき小田原に参じ,本領を安堵された。関ヶ原の戦いには徳川方に属して4万 7000石を領し,慶長 15 (1610) 年弘前に移った。文化2 (1805) 年寧親のとき7万石となり,さらに同5年高則のとき 10万石となった。明治になって伯爵。信政のとき分封された信英の黒石藩津軽氏は明治になって男爵。

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