浅茅湾(読み)あそうわん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅茅湾」の意味・わかりやすい解説

浅茅湾
あそうわん

長崎県、対馬(つしま)の中央部にあるリアス海岸の湾入。浅海湾とも書く。対馬の中央部の準平原をなす丘陵が沈降してできた湾で、入口は朝鮮海峡に向かって開き、大口(おおぐち)瀬戸とよばれる。湾内は広く面積240平方キロメートル。海岸線は複雑で、仁位(にい)浅茅湾、濃部(のぶ)浅茅湾、洲藻(すも)浦などの支湾があり、その支湾からさらに佐保(さほ)浦、和板(わいた)浦、和田(わだ)浦などの支湾を生じ、その間に半島や島々が多く、典型的な多島海の景観を展開し、壱岐対馬国定公園指定されている。湾の東側は、地峡部によって対馬海峡から隔てられ、地峡部には人工の切開による大船越(おおふなこし)瀬戸、万関(まんぜき)瀬戸がある。古来、大陸に対する日本の要地をなし、古くは防人(さきもり)が置かれ、明治以後、海軍の要港(竹敷港(たけしきこう))が置かれ、日本海海戦にはここから連合艦隊の水雷艇が出撃した。南岸の城山(じょうやま)には古代の朝鮮式山城があり、東岸の浅茅山(あさじやま)(188メートル。大山岳)は『万葉集』に歌われた名山で、「百舟(ももふね)の泊(は)つる対馬の浅茅山しぐれの雨にもみたひにけり」などの歌がある。湾内では真珠養殖が盛んで、イカ漁獲も多い。1975年(昭和50)南東岸の白蓮江(しれえ)山に対馬空港が開設された。

[石井泰義]


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改訂新版 世界大百科事典 「浅茅湾」の意味・わかりやすい解説

浅茅湾 (あそうわん)

浅海湾とも記す。長崎県対馬の中央部に,湾口を西方の朝鮮海峡へ開くリアス式の深い湾入。古くは帆船の風待ちに利用された。大小の島々や樹枝状にのびる岬と入江,そこに浮かぶ真珠養殖のいかだなどがあやなす景観は壱岐対馬国定公園の中心の一つである。《万葉集》に詠まれた東岸の浅茅(あさじ)山(大山岳,188m)や古代朝鮮式山城の南岸の城山(276m)が格好の展望所である。東側の対馬海峡を隔てる大船越地峡は,1672年(寛文12)に宗氏が開削し,また久須保(くすぼ)(万関)地峡は日本海軍が艦船の通航のため,1900年に運河を掘った。後者の万関瀬戸は日露戦争で,竹敷要港部の水雷艇隊が対馬海峡に出撃する際に利用された。湾内にはブリ,タイなどのはえなわ漁業を主とする水崎漁港やイカの一本釣漁業の盛んな尾崎および西海の両漁港,そして地方港湾の竹敷港と仁位港が長い入江を利用して立地する。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅茅湾」の意味・わかりやすい解説

浅茅湾
あそうわん

浅海湾とも書く。長崎県,対馬のほぼ中央にあるリアス海岸の発達した湾。湾内に数多くの支湾がある。面積約 240km2。西側は約 3kmの幅をもつ大口瀬戸で,朝鮮海峡に開いているが,東側は大船越瀬戸,久須保 (くすぼ) 瀬戸 (通称万関瀬) の2ヵ所が切り開かれ,そのうち大船越は寛文 12 (1672) 年に対馬藩宗氏により,久須保は 1900年に海軍により開削された。古くから朝鮮との主要な交通路であったが,明治以後は海軍の要塞地帯となった。第2次世界大戦後は真珠養殖が発達,遊漁船も多い。壱岐対馬国定公園に属する。

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事典・日本の観光資源 「浅茅湾」の解説

浅茅湾

(長崎県対馬市)
次代(あす)に残そう長崎百景」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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