玄洋社,黒竜会に連なる国家主義団体。1908年,田中弘之の主唱によって,〈憂国の志士〉をもって任ずるいわゆる〈浪人〉のクラブとして創立された。玄洋社同人中,福岡県出身以外の人々を主としていた。三浦梧楼,頭山満,佐々木安五郎,古島一雄,小川運平らを中心に,国家主義的世論の喚起,反デモクラシー運動で活発な行動を展開した。18年,黒竜会とともに〈大阪朝日新聞膺懲(ようちよう)運動〉(白虹(はつこう)事件)を行い,また同会の行動を非難した雑誌《日本及日本人》にも攻撃を加えた。このような同会の行動を,吉野作造は,同年11月号の《中央公論》誌上で徹底的に攻撃した。これに対し浪人会側は,吉野に立会演説会の開催を申し入れ,同年11月22日,東京神田南明俱楽部で吉野対浪人会の立会演説会が行われたが,かえって聴衆の吉野支持の気運を高めることになった。これを契機に,浪人会は会としての顕著な行動をみせることなく,衰退の道を歩むことになる。
執筆者:須崎 慎一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治末から大正にかけての黒竜会(こくりゅうかい)系の国家主義団体。1908年(明治41)田中弘之(ひろゆき)(舎身(とねみ))の主唱により、頭山満(とうやまみつる)、三浦梧楼(ごろう)、佐々木安五郎らを中心に政界浪人のクラブとして創立された。米騒動後のデモクラシーの風潮に抵抗し、大阪朝日新聞筆禍事件(白虹(はっこう)事件)を機に朝日膺懲(ようちょう)国体擁護の運動をおこし、東京、大阪、京都で演説会を開き、朝日の広告主に広告を出さぬよう脅かした。吉野作造(さくぞう)が『中央公論』誌上で同会を批判すると、立会い演説を申し入れたが、1918年(大正7)11月23日、東京・神田の南明倶楽部(なんめいくらぶ)で開かれた集会では、聴衆は圧倒的に吉野を支持。12月1日、朝日がこれまでの急進的論調変更の意を表したこともあって、以後浪人会の表だった運動はみられなかった。
[松尾尊兌]
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