三浦梧楼(読み)ミウラゴロウ

デジタル大辞泉 「三浦梧楼」の意味・読み・例文・類語

みうら‐ごろう【三浦梧楼】

[1847~1926]軍人政治家山口の生まれ。広島鎮台司令長官として萩の乱鎮圧。のち、朝鮮特命全権公使として閔妃びんひ殺害事件を起こした。晩年山県有朋とともに政界黒幕として活動。

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精選版 日本国語大辞典 「三浦梧楼」の意味・読み・例文・類語

みうら‐ごろう【三浦梧楼】

  1. 軍人、政治家。山口藩出身。枢密院顧問官。陸軍中将。維新後陸軍軍人として萩の乱・西南戦争の鎮圧にあたった。日清戦争後、朝鮮特命全権公使として、韓国に駐在、閔妃殺害事件を引き起こした。弘化三~大正一五年(一八四六‐一九二六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦梧楼」の意味・わかりやすい解説

三浦梧楼
みうらごろう
(1846―1926)

明治・大正時代の軍人、政治家。号は観樹(かんじゅ)。弘化(こうか)3年11月15日長州藩士五十部(いおべ)吉平の次男として生まれ、のち三浦家を継いだ。藩校明倫館(めいりんかん)に学び、のち奇兵隊に入隊、第二次長州征伐で幕府軍と対戦、戊辰戦争(ぼしんせんそう)にも従軍した。1870年(明治3)兵部省に出仕、元老院議官を経て、1876年広島鎮台司令長官となり、萩(はぎ)の乱や西南戦争の鎮圧にあたった。1878年陸軍中将に昇進、西部監軍部長に任じられたが、開拓使官有物払下げ事件で政府に反対し、翌1882年士官学校長に左遷された。1884年陸軍卿(りくぐんきょう)大山巌(おおやまいわお)に随行してヨーロッパ各国の兵制を調査、この間に子爵を授けられる。帰国後、東京、熊本両鎮台の司令長官を歴任した。1886年以降、陸軍主流がプロシア式軍制への転換を試み、監軍部を廃止しようとしたため谷干城(たにかんじょう)らとともに反対、さらに陸軍内の研究団体月曜会の顧問格としての活動が主流派の忌避するところとなり、曽我祐凖(そがすけのり)らとともに1888年に予備役に編入された。宮中顧問官、学習院長を歴任、大隈重信(おおくましげのぶ)外相の条約改正交渉には反対意見を上奏、1890年には子爵議員として貴族院議員に選ばれた。1895年在朝鮮特命全権公使となり、三国干渉以後の朝鮮政府内における日本の劣勢を挽回(ばんかい)しようとして閔妃虐殺事件(びんひぎゃくさつじけん)を引き起こし、広島に拘禁された。1898~1899年には憲政本党の推進する非増租運動に参加して東北・北陸方面に遊説した。1910年(明治43)枢密顧問官となり、以後政界の黒幕として活動。元老山県有朋(やまがたありとも)に対抗して政党に接近、第二次大隈内閣のときに外交政策をめぐり憲政会・政友会・立憲国民党の三党首会談を斡旋(あっせん)、さらに1924年(大正13)には憲政・政友・革新倶楽部(くらぶ)の三党首会談を実現し、第二次護憲運動の成立を促進した。大正15年1月28日没。

[宇野俊一]

『小谷保太郎編『観樹将軍回顧録』(1925・政教社/1988・大空社)』


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朝日日本歴史人物事典 「三浦梧楼」の解説

三浦梧楼

没年:大正15.1.28(1926)
生年:弘化3.11.15(1847.1.1)
明治大正期の陸軍軍人,政治家。長州(萩)藩士五十部吉平の5男。三浦道庵の養子。観樹と号す。文久3(1863)年奇兵隊に入り,第2次長州征討の際は小倉方面に進撃,続いて鳥羽・伏見の戦,北越戦争に参加した。明治3(1870)年木戸孝允の引き立てで兵部省に出仕,4年陸軍大佐。6年陸軍省第3局長。7年政府の台湾出兵に反対,第3局長として武器調達に応じず帰郷を決意したが伊藤博文らに引き止められた。9年広島鎮台司令長官として萩の乱の鎮定に赴き,西南戦争(1877)では征討第3旅団司令長官として出征,熊本,宮崎と転戦し城山(鹿児島市)を陥落させた。この間10年5月木戸の死に見舞われ,薩長の情実打破という遺志を継ぐ覚悟を決める。11年陸軍中将に進み,西部監軍部長。14年開拓使官有物払下げ事件で政府の方針に反対して4将軍による意見書を提出したため翌年陸軍士官学校に左遷された。17年大山巌陸軍卿に随行して欧州出張。18年帰国後,薩長中心の陸軍を教育システムの面から改革すべく意見書を提出したが,19年熊本鎮台司令長官へ左遷され,不満を抱き軍職を去った。 21~25年学習院院長。この間に起きた大隈重信外相の条約改正案に反対,院長の立場を利用して明治天皇に条約改正反対を直接上奏した。23~24年貴族院議員,28年朝鮮駐在公使に任じられ,朝鮮に赴任して閔妃暗殺事件に関与,そのため広島監獄署に収監されたが,広島地方裁判所予審で証拠不十分として免訴となった。31年地租増徴に反対して全国を遊説。43~大正13(1924)年枢密顧問官。大正5年には第1次3党首(政友会・原敬,同志会・加藤高明,国民党・犬養毅)会談を斡旋,また寺内正毅内閣の成立に尽力し,外交調査会設置にも努力した。晩年は政界のいわば黒幕的存在として藩閥政府に対する牽制役をはたす一方,政党内閣の健全な発展に期待するところが多く,大正13年には第2次3党首会談(憲政会・加藤高明,政友会・高橋是清,革新倶楽部・犬養毅)を斡旋し護憲3派内閣(加藤首相)の成立を促した。<著作>『観樹将軍回顧録』<参考文献>「三浦梧楼関係文書」(国立国会図書館蔵)

(田浦雅徳)

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20世紀日本人名事典 「三浦梧楼」の解説

三浦 梧楼
ミウラ ゴロウ

江戸時代末期・明治期の陸軍中将,政治家,子爵 枢密顧問官;貴院議員(勅選)。



生年
弘化3年11月15日(1847年)

没年
大正15(1926)年1月28日

出生地
長門国萩浜崎町(山口県)

旧姓(旧名)
五十部 五郎

別名
号=三浦 観樹(ミウラ カンジュ),諱=一貫,変名=三浦 一郎

経歴
文久2年三浦道庵の家督を継ぐ。3年奇兵隊に入隊、戊辰戦争に参加。明治3年兵部権少丞、4年陸軍大佐兼兵部権大丞を経て、6年陸軍省第3局長となる。9年広島鎮台司令官として神風連の乱、萩の乱を鎮圧、10年西南戦争には征討第3旅団司令官として従軍した。11年陸軍中将に昇進。16年大山巌に随行して兵制視察のため渡欧、帰国後子爵。21年宮中顧問官兼学習院院長、23〜24年貴院議員に勅選される。28年駐朝鮮公使を務めていた時に同国における日本勢力回復を図り、朝鮮王室の王妃であった閔妃暗殺のクーデターに関与して投獄された(のち無罪)。43年〜大正13年枢密顧問官。晩年は政党間の斡旋を行うなど、政界の黒幕として活躍した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「三浦梧楼」の解説

三浦 梧楼
ミウラ ゴロウ


肩書
貴院議員,枢密顧問官

旧名・旧姓
別名=五十部 五郎

別名
号=三浦 観樹(ミウラ カンジュ) 諱=一貫 変名=三浦 一郎

生年月日
弘化3年11月15日(1846年)

出生地
長門国萩浜崎町(山口県)

経歴
文久2年(1862年)三浦道庵の家督を継ぐ。3年奇兵隊に入隊、戊辰戦争に参加。明治3年以降兵部権少丞を経て、4年陸軍大佐兼兵部権大丞となり、のち陸軍中将に昇進。この間、広島鎮台司令官として神風連の乱、萩の乱を鎮圧、西南戦争にも従軍した。16年大山巌に随行して兵制視察のため渡欧、帰国後子爵。21年宮中顧問官兼学習院院長、23年貴院議員に勅選される。28年韓国公使を務めていた時に同国における日本勢力回復を図り、朝鮮王室の王妃であった閔妃暗殺のクーデターを起こして投獄された(のち無罪)。43年枢密顧問官に就任。晩年は政党間の斡旋を行うなど、政界の黒幕として活躍した。

没年月日
大正15年1月28日

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改訂新版 世界大百科事典 「三浦梧楼」の意味・わかりやすい解説

三浦梧楼 (みうらごろう)
生没年:1846-1926(弘化3-昭和1)

明治期の軍人,政治家。長州藩士。五十部吉平の次男に生まれ,三浦道庵の養子となる。観樹と号する。尊攘運動に参加し,奇兵隊に入る。1870年(明治3)以来,兵部権少丞,広島鎮台司令官となり,萩の乱,西南戦争などの鎮圧にあたり,陸軍中将に任ぜられる。その後,陸軍士官学校長,東京,熊本鎮台の司令官を歴任したが,84年予備役に編入される。88年には宮中顧問官兼学習院院長に就任し,90年貴族院議員に勅選。95年特命全権公使として韓国に赴任したが,閔妃(びんひ)殺害事件に関係して広島に投獄され,翌年免訴となる。以後官を辞して政界に入り,憲政本党に属し,97年には地租増徴に反対して東北地方を遊説したが,1910年には枢密院顧問官に就任し,政界の黒幕的存在として護憲三派内閣の成立に奔走した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦梧楼」の意味・わかりやすい解説

三浦梧楼
みうらごろう

[生]弘化3(1847).11.15. 山口
[没]1926.1.28. 東京
軍人,政治家。子爵。号,観樹。山口藩士五十部吉平の次男で三浦氏を継いだ。明倫館に学び,尊攘運動に参加。明治3 (1870) 年兵部省に入り,同4年陸軍少将。萩の乱 (1876) ,西南戦争 (1877) に功を立て,1878年陸軍中将。 1884年大山巌に随行,ヨーロッパ各国の兵制を視察。東京,熊本鎮台司令官を経て 1888年予備役。宮中顧問官となり,学習院院長をも務めた。 1889年大隈重信の条約改正案に反対,1890年貴族院議員,1895年韓国公使,王妃閔妃殺害事件 (→乙未事変 ) で入獄したが,まもなく釈放された。のち憲政本党に入り,地租税増徴に反対し全国を遊説,1910年枢密顧問官。以後,政界の表に出ず政党間の斡旋に努めた。護憲3派の結成は三浦の仲介によった。

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百科事典マイペディア 「三浦梧楼」の意味・わかりやすい解説

三浦梧楼【みうらごろう】

明治・大正の軍人,政治家。長州萩藩出身。観樹と号。1871年兵部省に入り,萩の乱西南戦争に従軍。1889年国粋主義の立場から大隈重信の条約改正案に反対。1895年朝鮮公使となり,閔妃(びんひ)暗殺事件を起こして下獄。晩年政界の黒幕として憲政擁護運動にくみして藩閥内閣に反対,護憲三派内閣を成立させた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三浦梧楼」の解説

三浦梧楼
みうらごろう

1846.11.15~1926.1.28

明治・大正期の陸軍軍人・政治家。萩藩士の子。号は観樹。奇兵隊に入り第2次長州戦争で活躍。戊辰(ぼしん)戦争に参加。西南戦争に第3旅団司令長官として出征。1881年(明治14)開拓使官有物払下げ反対を建白。陸軍部内では主流派と対立し,86年休職。学習院院長・貴族院議員をへて,95年朝鮮国駐在特命全権公使となり閔妃(びんひ)殺害に関与し,罷免・投獄されたが,裁判で無罪となる。1910年枢密顧問官に就任,政界の黒幕として24年(大正13)第2次護憲運動のとき,政友・憲政・革新の3党首会談を斡旋した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦梧楼」の解説

三浦梧楼 みうら-ごろう

1847*-1926 明治-大正時代の軍人,政治家。
弘化(こうか)3年11月15日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の奇兵隊出身。累進して陸軍中将となるが山県有朋(ありとも)らと対立して予備役編入。学習院院長をへて明治28年朝鮮公使となり,閔妃(ミンビ)暗殺事件をおこした。後年は政界の黒幕として活動。貴族院議員,枢密顧問官。大正15年1月28日死去。81歳。本姓は五十部(いおべ)。号は観樹。著作に「観樹将軍回顧録」。

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367日誕生日大事典 「三浦梧楼」の解説

三浦 梧楼 (みうら ごろう)

生年月日:1847年11月15日
江戸時代;明治時代の陸軍軍人;政治家;萩藩士。中将;子爵
1926年没

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世界大百科事典(旧版)内の三浦梧楼の言及

【萩の乱】より

…10月31日には山口県令関口隆吉の率いる政府軍との間に火ぶたが切られた。陸軍卿山県有朋は,木戸孝允,伊藤博文と相談のうえ,広島鎮台司令長官三浦梧楼陸軍少将を鎮圧に向かわせた。11月2~3日,萩を中心に激戦が続いたが,4日には大阪鎮台兵が山口に到着,海からも軍艦2隻が砲撃し,総勢500余人に及んだとされる前原軍も6日には鎮定された。…

【閔妃】より

…このため,勢力後退で焦燥感にかられた日本の手によって殺された。
[閔妃虐殺事件]
 1895年,日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された事件。三国干渉を契機として復活した閔氏政権の排日政策に対抗して勢力挽回を図った三浦は,10月8日早朝,ソウル駐在の日本守備隊および岡本柳之助安達謙蔵ら日本人壮士のグループに命じて景福宮を襲撃させた。…

※「三浦梧楼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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