頭山満(読み)トウヤマミツル

デジタル大辞泉 「頭山満」の意味・読み・例文・類語

とうやま‐みつる【頭山満】

[1855~1944]国家主義者。福岡の生まれ。萩の乱で一時入獄。自由民権運動に参加後、国家主義に転じ、玄洋社を創立。強硬外交と大陸進出を唱え、在野で右翼の中心人物として活躍。

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精選版 日本国語大辞典 「頭山満」の意味・読み・例文・類語

とうやま‐みつる【頭山満】

  1. 国家主義者。福岡藩出身。向陽社を起こして自由民権運動に加わる。のち玄洋社と改めて国権論に傾き、政界の裏面で、日清・日露戦争韓国併合などの強硬外交、大陸進出を推進。大正・昭和期を通じての右翼運動の中心人物。安政二~昭和一九年(一八五五‐一九四四

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改訂新版 世界大百科事典 「頭山満」の意味・わかりやすい解説

頭山満 (とうやまみつる)
生没年:1855-1944(安政2-昭和19)

明治・大正・昭和期の国家主義者。黒田藩士の家に生まれ,のち母の実家を継ぐ。1876年同藩の不平士族の蜂起計画に加わって逮捕され,1年間入獄。79年板垣退助の強い影響下に箱田六輔平岡浩太郎らと向陽社を設立,同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い,81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇してその〈盟主〉となるべきだと主張しはじめ,同社をこの国権論で統一する一方で炭坑を同社の財源とすることに成功して,同社の事実上の最高指導者となった。87年,国権論宣伝のため《福陵新報》を創刊。条約改正反対運動で玄洋社員に大隈重信外相を襲わせたり,第2回総選挙で政府の選挙干渉に荷担して福岡県内の民党派を襲撃したことなどで,国権派壮士としての地位を築いた。また,一部の大陸浪人がつくった天佑俠と称する団体に資金を与えたり,対露同志会などに加わり日露開戦を唱えたり,満州義軍を参謀本部の支持の下に派遣するなど,大陸侵略と強硬外交を主張しつづけた。金玉均やビハリ・ボースらの亡命政治家を保護し孫文ら中国人革命家の日本での活動を支援したのも,それを日本の大陸侵略活動の足がかりにする意図による。この後,アメリカ排日移民法に反対した対米強硬外交の主張,普通選挙に反対する家長選挙論の主張などのほかは表だった活動をしなくなっていったとはいえ,右翼の巨頭として隠然たる勢力と政界への影響力をもちつづけた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「頭山満」の意味・わかりやすい解説

頭山満
とうやまみつる
(1855―1944)

国家主義者、大アジア主義者。安政(あんせい)2年4月12日、福岡藩士筒井家に生まれ、母の実家を継いで頭山と称す。初め矯志社(きょうししゃ)など不平士族の反政府運動に加わり、萩(はぎ)の乱で一時入獄。1878年(明治11)板垣退助(たいすけ)の影響で民権運動に投じ、翌年箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)らと福岡で向陽社(のち共愛会)を設立、国会開設運動を行った。81年国会開設の詔勅が出ると、平岡らと共愛会を玄洋社と改め、民権論から離れて国権の伸張を主張、大アジア主義を唱えるようになった。以後、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張。井上・大隈(おおくま)の条約改正案への反対、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相品川弥二郎(やじろう)のもとでの選挙干渉の推進、天佑侠(てんゆうきょう)や黒竜会への援助、韓国併合の促進などに動いた。辛亥(しんがい)革命に関与する一方、金玉均(きんぎょくきん)、孫文(そんぶん)、ビハリ・ボースなどの亡命政治家を保護、つねに政界の裏面で日本の対外進出のために画策を続けた。右翼の草分け的存在として各界に隠然たる勢力をもち、多くの国家主義者を育てた。昭和19年10月5日没。

[岡部牧夫]

『竹内好編『現代日本思想大系9 アジア主義』(1963・筑摩書房)』『葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』(1972・日本教文社)』


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百科事典マイペディア 「頭山満」の意味・わかりやすい解説

頭山満【とうやまみつる】

明治〜昭和戦前期の国家主義者,右翼の巨頭。福岡藩士。不平士族の蜂起計画に加わって入獄,西南戦争後出獄して向陽社(のちの玄洋社)を結成。民権伸張を主張したが,のち国家主義に転向,大アジア主義を唱えた。松方正義の選挙干渉を応援し,対露同志会に参加して強硬外交を推進。孫文蒋介石汪兆銘フィリピンの独立運動指導者アギナルドに近づき,日本の大陸進出の黒幕となった。
→関連項目黒竜会杉山茂丸

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20世紀日本人名事典 「頭山満」の解説

頭山 満
トウヤマ ミツル

明治〜昭和期の国家主義者,右翼の総帥



生年
安政2年4月12日(1855年)

没年
昭和19(1944)年10月5日

出生地
筑前国福岡(福岡県福岡市)

旧姓(旧名)
筒井

別名
号=立雲

学歴〔年〕
興志塾

経歴
福岡藩士の子として生れる。興志塾に学び、西郷隆盛の大陸政策に共鳴、明治8年矯志社を結成。萩の乱に参加して入獄していたためめ西南の役には参加できなかった。12年向陽社を組織し、国会開設運動を推進。14年箱田六輔、平岡浩太郎らと玄洋社を結成、自由民権運動の一派として活動し、大陸進出を主張する大アジア主義を唱え、金玉均、孫文、ボースらの亡命者を助けた。その後、国家主義に移行、22年条約改正問題や対露開戦論などを論じ、日本国家主義運動の中心人物として活躍した。終始公職につかず在野生活を続け、右翼の巨頭として政界の黒幕であった。

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朝日日本歴史人物事典 「頭山満」の解説

頭山満

没年:昭和19.10.5(1944)
生年:安政2.4.12(1855.5.27)
明治から昭和期にかけての国家主義者。筑前黒田藩(福岡)藩士筒井亀策とイソ子の3男として生まれる。幼名乙次郎。のちに母方の姓を継ぎ頭山満と称す。号は立雲。明治9(1876)年秋月・萩の乱への呼応計画が漏洩し入獄。10年放免。11年秋,大阪での愛国社再興大会から帰福し,進藤喜平太,箱田六輔らと民権政社,向陽社を結成。13年5月玄洋社設置届を県警察本署に提出。22年の大隈重信の条約改正案に対しては,熊本国権党の佐々友房と連合し,反対運動を展開。この間,次第に民権主義から国権主義へ転換。25年第2回総選挙に際しては,政府側に立ち選挙干渉を行う。以後,在野の士として対露同志会などに参加,一貫して対外硬を唱える。また一方では,政府方針に反し,金玉均 や孫文,ビハリ・ボースらの朝鮮,中国,インドの独立派,革命派の亡命救援活動を実践。アジア主義者としての一面を見せた。<参考文献>頭山満翁伝編纂委員会編『頭山満翁正伝(未定稿)』

(佐々博雄)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「頭山満」の意味・わかりやすい解説

頭山満
とうやまみつる

[生]安政2(1855).4.12. 福岡
[没]1944.10.5. 静岡
明治,大正,昭和の3代を通じての右翼の巨頭。大アジア主義者。福岡藩士筒井家に生れ,母方の頭山家を継いだ。福岡,高場乱の塾に学び,21歳のとき,西郷隆盛傘下の矯志会に加わった。のち萩の乱に関係して入獄,出獄後一時民権運動の先駆としてその一翼をになったが,1881年平岡浩太郎,箱田六輔らとともに大陸進出を唱える玄洋社を起し,民権運動から離れた。頭山と玄洋社は,軍備拡張,強硬外交を唱え,日清,日露などの開戦の機運をつくるために運動した。またアジアの亡命政治家を庇護したり,孫文の中国革命への援助を行うなどアジア復興へ情熱を傾けたが,一貫して政治の裏舞台にいて,公職につくことはなかった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「頭山満」の解説

頭山満 とうやま-みつる

1855-1944 明治-昭和時代前期の国家主義者。
安政2年4月12日生まれ。萩の乱に関係して入獄。のち自由民権運動にくわわり,明治12年向陽社を,14年玄洋社を結成。その後国権論へと転じ,条約改正案に反対し,日露開戦を主張するなど,大アジア主義をとなえて日本の大陸進出を画策。一方,孫文の辛亥(しんがい)革命を支援し,金玉均(キム-オツキユン),ビハリ=ボースらの亡命家を保護した。昭和19年10月5日死去。90歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。旧姓は筒井。号は立雲。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「頭山満」の解説

頭山満
とうやまみつる

1855.4.12~1944.10.5

明治~昭和前期のナショナリスト。旧姓筒井。福岡藩士の家に生まれ,母方の頭山家を継ぐ。士族民権結社の矯志社をへて,1879年(明治12)箱田六輔(ろくすけ)・平岡浩太郎らと福岡に向陽社を結成し,民権運動に活躍。81年玄洋社と改称し,国権論・アジア主義を唱道した。日本の膨脹政策支援や孫文などのアジアの政治家の援助を行い,在野の右翼の巨頭として,政界に隠然たる影響力を発揮した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「頭山満」の解説

頭山満
とうやまみつる

1855〜1944
明治〜昭和期の右翼の巨頭
福岡藩出身。萩の乱に連坐して投獄され,出獄後向陽社(のちの玄洋社)を設立。国会開設運動に活躍し,のち国家主義運動に進み,大陸進出を主張。大陸浪人を養い,政界の裏面で活躍した。

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367日誕生日大事典 「頭山満」の解説

頭山 満 (とうやま みつる)

生年月日:1855年4月12日
明治時代-昭和時代の国家主義者
1944年没

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世界大百科事典(旧版)内の頭山満の言及

【右翼】より

…この言葉は,その性格上,客観的記述のためより相手方への評価をこめた政治用語として使われることが多い。【坂本 多加雄】
[日本の右翼]
 日本の右翼運動は,明治政府の欧化政策に反対するため,士族反乱や自由民権運動と結んで反政府運動を展開していた平岡浩太郎や頭山満らが,1879年に向陽社を結成し,81年にそれを玄洋社と改称したときに開始された。やがて玄洋社は自由民権運動からはなれ,条約改正即時断行,日清開戦,大陸への進出などの対外強硬策を主張する国家主義団体に成長していった。…

【玄洋社】より

…明治維新後,没落した旧福岡藩士中の不平分子は専制政府打倒を唱え,各地の不平士族の武力蜂起への同調を企てる一方,板垣退助の立志社にならって民権伸張を論じていた。1876年の萩の乱への参加計画が失敗し,翌年の西南戦争に応じた挙兵も鎮圧されると,彼らは箱田六輔,平岡浩太郎,頭山満らを中心に79年向陽社を設立し,愛国社,のちに国会期成同盟の一員として藩閥政府を攻撃し国会開設請願運動を行った。81年向陽社は玄洋社と改称,平岡が社長となり,〈皇室を敬戴す可し 本国を愛重す可し 人民の権利を固守す可し〉との〈憲則〉を制定した。…

【黒竜会】より

…会の名は露清国境を流れる黒竜江(アムール川)からとった。主幹は内田,幹事は葛生修亮(能久),玄洋社での内田の先輩格頭山満を顧問とした。綱領は日本がアジア民族興隆の指導者となるべきことを宣言し,藩閥官僚主義の弊害除去,〈天皇主義の妙諦〉の発揮,現行制度の改造による〈皇国〉の基礎の強化,国防の充実,国粋主義的国民教育の建設などを主張している。…

※「頭山満」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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