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頭山満 とうやま みつる

美術人名辞典の解説

頭山満

国家主義者。福岡県生。萩の乱に通謀して入獄。出獄後、向陽義塾を起して青年の教育に当たり、ついで玄洋社を創設、超国家主義を唱えて大陸進出を主張。以来黒龍会等の大陸浪人を支配し、国家主義運動の重鎮として政界の裏面に暗躍した。昭和19年(1944)歿、90才。

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デジタル大辞泉の解説

とうやま‐みつる【頭山満】

[1855~1944]国家主義者。福岡の生まれ。萩の乱で一時入獄。自由民権運動に参加後、国家主義に転じ、玄洋社を創立。強硬外交と大陸進出を唱え、在野で右翼の中心人物として活躍。

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百科事典マイペディアの解説

頭山満【とうやまみつる】

明治〜昭和戦前期の国家主義者,右翼の巨頭。福岡藩士。不平士族の蜂起計画に加わって入獄,西南戦争後出獄して向陽社(のちの玄洋社)を結成。民権伸張を主張したが,のち国家主義に転向,大アジア主義を唱えた。
→関連項目黒竜会杉山茂丸

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

頭山満 とうやま-みつる

1855-1944 明治-昭和時代前期の国家主義者。
安政2年4月12日生まれ。萩の乱に関係して入獄。のち自由民権運動にくわわり,明治12年向陽社を,14年玄洋社を結成。その後国権論へと転じ,条約改正案に反対し,日露開戦を主張するなど,大アジア主義をとなえて日本の大陸進出を画策。一方,孫文の辛亥(しんがい)革命を支援し,金玉均(キム-オツキユン),ビハリ=ボースらの亡命家を保護した。昭和19年10月5日死去。90歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。旧姓は筒井。号は立雲。

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朝日日本歴史人物事典の解説

頭山満

没年:昭和19.10.5(1944)
生年:安政2.4.12(1855.5.27)
明治から昭和期にかけての国家主義者。筑前黒田藩(福岡)藩士筒井亀策とイソ子の3男として生まれる。幼名乙次郎。のちに母方の姓を継ぎ頭山満と称す。号は立雲。明治9(1876)年秋月・萩の乱への呼応計画が漏洩し入獄。10年放免。11年秋,大阪での愛国社再興大会から帰福し,進藤喜平太,箱田六輔らと民権政社,向陽社を結成。13年5月玄洋社設置届を県警察本署に提出。22年の大隈重信の条約改正案に対しては,熊本国権党佐々友房と連合し,反対運動を展開。この間,次第に民権主義から国権主義へ転換。25年第2回総選挙に際しては,政府側に立ち選挙干渉を行う。以後,在野の士として対露同志会などに参加,一貫して対外硬を唱える。また一方では,政府方針に反し,金玉均 や孫文,ビハリ・ボースらの朝鮮,中国,インドの独立派,革命派の亡命救援活動を実践。アジア主義者としての一面を見せた。<参考文献>頭山満翁伝編纂委員会編『頭山満翁正伝(未定稿)』

(佐々博雄)

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世界大百科事典 第2版の解説

とうやまみつる【頭山満】

1855‐1944(安政2‐昭和19)
明治・大正・昭和期の国家主義者。黒田藩士の家に生まれ,のち母の実家を継ぐ。1876年同藩の不平士族の蜂起計画に加わって逮捕され,1年間入獄。79年板垣退助の強い影響下に箱田六輔,平岡浩太郎らと向陽社を設立,同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い,81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇してその〈盟主〉となるべきだと主張しはじめ,同社をこの国権論で統一する一方で炭坑を同社の財源とすることに成功して,同社の事実上の最高指導者となった。

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大辞林 第三版の解説

とうやまみつる【頭山満】

1855~1944) 国家主義者。福岡生まれ。萩の乱に参加して入獄後、自由民権運動に参加。のち玄洋社を結成、国家主義に転じた。大アジア主義を唱えて大陸進出に暗躍し、黒竜会・大陸浪人などを支配する右翼の巨頭的存在となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

頭山満
とうやまみつる

[生]安政2(1855).4.12. 福岡
[没]1944.10.5. 静岡
明治,大正,昭和の3代を通じての右翼の巨頭。大アジア主義者。福岡藩士筒井家に生れ,母方の頭山家を継いだ。福岡,高場乱の塾に学び,21歳のとき,西郷隆盛傘下の矯志会に加わった。のち萩の乱に関係して入獄,出獄後一時民権運動の先駆としてその一翼をになったが,1881年平岡浩太郎,箱田六輔らとともに大陸進出を唱える玄洋社を起し,民権運動から離れた。頭山と玄洋社は,軍備拡張,強硬外交を唱え,日清,日露などの開戦の機運をつくるために運動した。またアジアの亡命政治家を庇護したり,孫文の中国革命への援助を行うなどアジア復興へ情熱を傾けたが,一貫して政治の裏舞台にいて,公職につくことはなかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

頭山満
とうやまみつる
(1855―1944)

国家主義者、大アジア主義者。安政(あんせい)2年4月12日、福岡藩士筒井家に生まれ、母の実家を継いで頭山と称す。初め矯志社(きょうししゃ)など不平士族の反政府運動に加わり、萩(はぎ)の乱で一時入獄。1878年(明治11)板垣退助(たいすけ)の影響で民権運動に投じ、翌年箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)らと福岡で向陽社(のち共愛会)を設立、国会開設運動を行った。81年国会開設の詔勅が出ると、平岡らと共愛会を玄洋社と改め、民権論から離れて国権の伸張を主張、大アジア主義を唱えるようになった。以後、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張。井上・大隈(おおくま)の条約改正案への反対、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相品川弥二郎(やじろう)のもとでの選挙干渉の推進、天佑侠(てんゆうきょう)や黒竜会への援助、韓国併合の促進などに動いた。辛亥(しんがい)革命に関与する一方、金玉均(きんぎょくきん)、孫文(そんぶん)、ビハリ・ボースなどの亡命政治家を保護、つねに政界の裏面で日本の対外進出のために画策を続けた。右翼の草分け的存在として各界に隠然たる勢力をもち、多くの国家主義者を育てた。昭和19年10月5日没。[岡部牧夫]
『竹内好編『現代日本思想大系9 アジア主義』(1963・筑摩書房) ▽葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』(1972・日本教文社)』

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世界大百科事典内の頭山満の言及

【右翼】より

…この言葉は,その性格上,客観的記述のためより相手方への評価をこめた政治用語として使われることが多い。【坂本 多加雄】
[日本の右翼]
 日本の右翼運動は,明治政府の欧化政策に反対するため,士族反乱や自由民権運動と結んで反政府運動を展開していた平岡浩太郎や頭山満らが,1879年に向陽社を結成し,81年にそれを玄洋社と改称したときに開始された。やがて玄洋社は自由民権運動からはなれ,条約改正即時断行,日清開戦,大陸への進出などの対外強硬策を主張する国家主義団体に成長していった。…

【玄洋社】より

…明治維新後,没落した旧福岡藩士中の不平分子は専制政府打倒を唱え,各地の不平士族の武力蜂起への同調を企てる一方,板垣退助の立志社にならって民権伸張を論じていた。1876年の萩の乱への参加計画が失敗し,翌年の西南戦争に応じた挙兵も鎮圧されると,彼らは箱田六輔,平岡浩太郎,頭山満らを中心に79年向陽社を設立し,愛国社,のちに国会期成同盟の一員として藩閥政府を攻撃し国会開設請願運動を行った。81年向陽社は玄洋社と改称,平岡が社長となり,〈皇室を敬戴す可し 本国を愛重す可し 人民の権利を固守す可し〉との〈憲則〉を制定した。…

【黒竜会】より

…会の名は露清国境を流れる黒竜江(アムール川)からとった。主幹は内田,幹事は葛生修亮(能久),玄洋社での内田の先輩格頭山満を顧問とした。綱領は日本がアジア民族興隆の指導者となるべきことを宣言し,藩閥官僚主義の弊害除去,〈天皇主義の妙諦〉の発揮,現行制度の改造による〈皇国〉の基礎の強化,国防の充実,国粋主義的国民教育の建設などを主張している。…

※「頭山満」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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