改訂新版 世界大百科事典 「淫祠邪教」の意味・わかりやすい解説
淫祠邪教 (いんしじゃきょう)
国家権力ないし支配者によって,反体制的な傾向を持つとみなされた民間信仰,宗教のこと。淫祠はまた,淫祀ともいい,異端,左道と類似した言い方である。中国では,秦・漢時代において国家によって民間の祭祀が整理され,祭天の儀礼を頂点とする祭祀の典礼が整備された。これを祀典という。すでに《礼記(らいき)》曲礼では,祭るべきではないものを祭ることを淫祀と呼んでいるが,祀典が整備されてからは,国家の祀典に入っていないものを淫祀とみなすようになった。こうした祀典の整備,淫祀(淫祠)の観念の確立に,儒教による思想統一があずかって力があったことはいうまでもない。後漢の応劭(おうしよう)は《風俗通義》において,巻八に〈祀典〉,巻九に〈怪神〉を列挙し,怪神の項では,城陽景王祠,鮑君神などの淫祠を取り上げ,民間の祠廟信仰の様子を伝えている。淫祠のなかには,たとえば南朝の項羽神のように,広範な民衆の信仰を得たために,陳の時代には国家に享祀されたという場合もあるが,多くは国家や地方官の禁圧に遭い,盛衰を繰り返した。
また南北朝・隋・唐時代には,仏教がしばしば邪教とみなされ,淫祠と同様,国家の禁圧の対象となることがあった。三武一宗の法難といわれる,北魏の太武帝,北周の武帝,唐の武宗,五代後周の世宗による廃仏事件がそれである。これらは国策の遂行上,あるいは国家による思想の統一に仏教が障害となるとしたもので,仏教教団に脱税を目的とした民衆が包含されていたことも見逃せない。宋以後は,たとえば《大明律集解附例》に見えるように,弥勒教,白蓮社,明尊教,白雲宗などが邪教とみなされた。これらの宗教は,仏教,道教,マニ教などが習合し,多くは結社を作って,民衆反乱の温床となった。またその中には宝巻と呼ばれる経典を作って自己の教義を流布しようとしたものもあり,清代の地方官,黄育楩(こういくべん)は《破邪詳弁》を著して,これらに反駁している。
→秘密結社
執筆者:砂山 稔
日本の淫祠邪教
《類聚三代格》に,〈京中街路〉で淫祀をまつることを禁断する官符(宝亀11年12月)があり,律令国家が,民間の巫覡と民衆の結びつきを危険視していたことをうかがわせる。呪術との関連で陰陽石や道祖神など性的な神々や小祠が淫祠とされる場合が多かったが,明治以降も多くの新宗教がその成立期において既成宗教や国家権力の側から邪教視され,禁圧の対象とされた。淫祠邪教とされる根拠は,祈禱などによる病人の医療,種々の霊験を説くこと,予言で人々を惑わすことなどであった。いわゆる淫祠邪教は,歴史を通じて統治権力による宗教統制の対象として,圧力が加えられた。たとえば1882年施行の旧刑法には〈妄ニ吉凶禍福ヲ説キ又ハ祈禱符呪ヲ為シ人ヲ惑ハシテ利ヲ図ル者〉を拘留または科料に処するとされたが,この条文は,717年(養老1)の行基弾圧の詔に,〈街衢ニ零畳シテ妄ニ罪福ヲ説〉〈詐リテ聖道ト称シ,百姓ヲ妖惑ス〉とあるのと,驚くべき類似を示している。
→性器崇拝
執筆者:蛸島 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報